ep.013 泡沫の夢から覚める時

 列車が大きく揺れた。ナタリアは浮きそうになった帽子のつばを押さえる。動き出した景色の中、銀髪の青年の姿は人の波の間に消えていた。


 まるで、この出会いは夢であったかのように。


 ナタリアは帽子を深く被り直すと、座席を探しに車内へと足を向ける。帝国の国境まで行く汽車だ、幸い混んでいることはなかった。なんとなく行きと同じ窓際の席を選んで座る。人形のように足を揃え、背筋を伸ばして人として一番美しい姿で動きを止めた少女に、車内の乗客は目を奪われた。


 自身に注がれる好奇に満ちた視線を意に介さず、ナタリアは物憂げに目を細めて外を見る。やがてナタリアが目を閉じると、乗客たちはその魅了から解放された。


 目を閉じて、ナタリアはライの顔を思い出す。


 絹糸のような美しい銀色の髪と、夜の空を集めたような藍色の瞳。整ったどこか冷たさを感じる顔立ちには、《死神》という名がぴたりと合う。


 胸がざわりと波立つ。

 それは初めての感覚だった。


 ライは他の人間と何かが違う。近くにいれば、ナタリアの中の何かが狂っていくような気がする。


 小さく息を吐き、ナタリアは思考を再開した。


 自分は心を持たない人形だ。

 任務を忠実に遂行することこそが自分の存在意義だ。


 揺らぎかけていた自己の定義を上書きする。簡単には揺らがないはずのそれは、ライという1人の異質な人間によって掻き乱されてしまっていた。


 ライを早く殺そう。


 帝国に帰りライの情報を集めて、再び会う時は共和国の《死神》が息絶える時だ。


 そうでなければならない。


 次に目を開けたナタリアの瞳は完璧な人形のガラスの目をしていた。ガラスのように空っぽな瞳には、もう青い花を綺麗とは認識しなくなっていた。




 ***



「ナタリア……」


 ライはもうこの場にはいない少女の名を無意識に口に出していた。雑踏に紛れるように歩き、先程までいた家への道を辿る。


 手が異様に軽いような気がして、ライはぐっと拳を握ってみた。その空虚さはナタリアの手の温もりが無いせいだと気が付き、苦笑いが口に浮かんだ。


 何年ぶりかに見た彼女はとても美しくなっていた。死を告げる天使、という名は彼女の為に生まれたような表現で、殺気を纏う姿さえも彼女に美しさを与える要素に成り果てていた。


 あの美しさは、血と硝煙の匂いがする宵闇の中でこそ輝くものだ。


 それが分かってしまうのもライ自身、暗殺者として染まり切っているからだろう。


 “空っぽ”の名前を持つナタリアは、暗殺人形として完璧だった。


 アリアが自分を見限ったのも納得がいく。アレにはライはなれない。


 暗殺人形は造られるものだ。心を持たず、意思を持たず、命令のみを忠実に遂行する帝国の人形だ。物心つく前から手には刃と銃を握らされ、そうなるように作り上げられる兵器そのもの。


 ライにも、空っぽな時期があった。


 今でこそ、やっと人形から人になれてから日は長くない。


 ナタリアを見て、ライは思い出す。ガンマとはああいう場所だったのだ、と。そして思う。


 ……やはり帝国は滅ぼすべきだ。


 軍服の裾を翻し、ライは路地の角を曲がる。日差しが遮られて身体を撫でる風の温度が下がった。


「ういーっす。お帰りだな、ライ」


 扉を開けると、ソファーから手をピラピラ動かすアルバの姿があった。軽く手を上げて応え、ライは紺色の軍服を脱ぐ。防刃のため厚く織られた布でできた軍服は重い。脱いだ途端に身体が軽くなったような錯覚を覚えた。


「ナタリア・イネイン。あんなキレーな子がこの国の重役どもの首を持ってく《死天使》だったとはね。驚きだよ」


 アルバを腕を頭の上で組み直してそう言った。ライは立ったままで返事をする。


「ああ。……予想していなかったわけではないが、この目で見ると動揺するな。前に会った時は、5年前くらいだ」


「いやぁ、ほんと、ガンマのヤバさが身に染みるよ。あの子みたいなヤツがゴロゴロしてるんだろ?」


「そうだな。だけど、今代のガンマで一番強いのは間違いなくナタリアだ。何せ、俺を殺しに来たんだから」


 アルバの空色の瞳が細められる。


「なるほど。道理でお前を殺しそうな気配を放ってたわけだ」


 よく分かったな、とライは頷いた。


 アルバ・カストルは気配読みに長けた特殊諜報部隊所属の尉官だ。つまり、簡単に言えばライの部下。しかし、ライよりも共和国軍歴は長く戦場での経験も豊富な為、部下と上司の関係よりも友人のそれといった方が近いだろう。


「で、お前どうすんだ? ナタリアを」


 俺のオススメは殺すことなんだけど、と軽い口調に合わないことを言う。ライは首を横に振った。


「殺す気はないさ。俺はただ、あの子に戦い以外のものを知ってほしいだけだ。だから、ガンマから連れ出したい」


「甘くないか? 《死神》さんよ」


 アルバの指摘は鋭くライに刺さる。


「普段のお前なら、不確定要素は顔色変えずに排除するだろ。どうしてあの人形にこだわる?」


 冷酷なまでの淡々とした事実の並べ立てに、ライは反論しない。いや、できない。そもそも、なぜナタリアに執着しているかも分からない。彼女は命令通りに動くだけの人形と知っているのに。


「……」


 黙り込んだライにやれやれとアルバは肩を竦めた。


「ま、いいんじゃないの。お前が気の済むようにすれば。俺たちの目的を邪魔することにならないならさ」


 気を遣われたのはすぐに理解できた。この少し年上の友人は気が良く回る。


「すまない。ありがとう」


 どうだ俺は凄いだろう、とドヤ顔をするような所を除けば最高の友人だ。


「で、だ。お前はこの状況をどう見る? 停戦条約が切れてから、最初に戦場になる場所は?」


「そんな質問しなくても分かってるだろ。間違いなく、帝国が狙うのはここだ」


 そう、ライの言う“ここ”とはもちろんこの港街リンツェルンに違いない。共和国の交易都市であるリンツェルンは、帝国との国境にも近く帝国が今最も潰したい場所だ。


「ナタリアちゃんが来たのもそういう理由だったりする?」


 ナタリアちゃんって……、呆れつつもアルバはそういうダメ人間だったことを同時に思い出す。


「……いや、関係ないと思う。この出会いはあくまで偶然だ」


「なるほど、お前が言うならそうなんだろな」


 思いの外あっさりとアルバは納得した。拍子抜けしたが、ライはそれを顔には出さない。


「そろそろ、帰った方が良いな」


 ライは軍服に袖を通しながら呟く。リンツェルンで怪しい動きが無いか偵察に来ただけだったのだが、これ以上居座れば上層部に睨まれる。


「うんうん、俺ら降格処分になるかもだし。っていっても階級とかどうでも良いんだけど」


 アルバもソファーから立ち上がり、軍服を羽織る。


「リュエル、お前のこと絶対心配してるぞー」


「……?」


 ニヤニヤしながらそんなことを言われたが、ライにはサッパリよく分からなかった。芳しくない反応にアルバはこっそり溜息を吐くと、勝手に心に決める。


よし、こいつに恋愛というものを教えよう、と。

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