ep.010 もう一人の暗殺人形
少女の睫毛が震えた。赤茶の髪が白い頰の上を滑り落ちる。
見えるのは天井のくすんだ梁。窓からは日差しが入り込み、宙を舞う微かな埃が光っている。
どうやら自分はまだ生きているらしい。
感覚は
なぜなら暗殺人形とはそういうものだからだ。自我を持たず、感情を持たず、意思を持たない
壊すことにしか意味はないはずなのに、なぜ《死神》は自分を殺さなかったのだろう。
《死天使》の少女は天井を見たまま思考する。
銀髪の青年は、ナタリアというアリアに貰った名で呼んだ。その上、青年はナタリアを帝国の《死天使》と知りながら、こうして生かしている。
意味がわからない。理解できない。わからない。
青年に関することは全部ナタリアには不可解だった。暗殺人形である自分には要らない思考で、そもそも考える必要もない。彼が自らナタリアの前に姿を現し、正体を明かした。幸運だったと、そして隙があれば殺せばいいと、そう考えればいい。けれど、ナタリアは青年の行動の意味を求め始めていた。
「起きたか?」
不意に人の気配が部屋に湧く。この落ち着いた声は間違えようもなく《死神》の青年のものだった。
ナタリアの頭は幻痛を訴える。『わからない』は許容範囲を超えて、ナタリアは一つの結論を導き出す。
この人を殺せば、この感覚も消えるかもしれない。
むしろそうすべきなのだ。この人は危険だと本能が告げている。
殺さなければ。殺して、いつも通りの暗殺人形に戻らなければ。
感覚のないの身体を無理矢理動かそうとする。ピクリと手が動き、僅かに身体が浮く。同時にベッドの白いシーツと共にナタリアは鈍い音を立てて木張りの床に落ちた。
青年が綺麗な藍色の瞳を見開く。まさかナタリアが動けるとは思ってもいなかったような顔だ。しかし、その中にはナタリアを案じるような表情が混ざっていた。
乱れた髪が顔を隠す。飴色の床に倒れ込んで、壁に辛うじて頭を預けたナタリアはこちらに近づこうとする青年を睨む。
「……近づかないで、ください」
「まだ動くなって……。君、まだ身体に感覚無いだろ」
青年は慌ててナタリアの隣に膝を着いた。青年の手が伸びる。身体に力を入れるだけで精一杯だったナタリアは手負いの獣のように、青年を威嚇することしかできない。
「近づかないでください」
「怯えなくていいから。俺は君を殺さない」
真っ直ぐな夜の空の瞳がいつかの月の色をした瞳を覗き込む。思わずナタリアは顔を背けた。
「怯える……? わたしにはそんな機能はありません。なぜ、わたしを殺さないのですか? あなたが《死神》なのでしたら、わたしを殺すのが道理です。わたしは、わたしはあなたがわかりません」
「君は……」
青年はナタリアの手をそっと取る。振り払いたくても振り払えなかった。青年はそのままナタリアを抱き寄せる。身体が動けば、今この手は青年の胸を貫いていたはずなのに。
「君は、ずっと、変わらないな」
「どういう意味ですか……?」
青年は軽々とナタリアの身体を抱き上げてベッドに横たわらせる。
「俺も、元々ガンマの暗殺人形だった。それで君は俺の妹弟子のようなものだったから」
「わたしの他にも、暗殺人形がいたのですか」
元暗殺人形の青年は頷く。それでナタリアは戦った時の不思議な感覚の理由を知る。同じ暗殺人形ならば、最強の人形であるはずのナタリアが不覚を取ったのも説明がついた。
「……あなたは、ガンマを、帝国を、裏切ったのですか?」
ナタリアは尋ねる。この問いに『イエス』と答えることの意味を知らない青年ではないだろう、と。青年は困ったような顔をして、それから静かに答えた。
「そうだ。俺はもう、帝国の人間じゃない」
「ならば、やはりわたしはあなたを殺します。ガンマを裏切ることは、死を以て償う大罪です。裏切り者はガンマの者が直々に葬り去る、それが掟です」
「知ってる。だから、アリア様は君を差し向けた。共和国の《死神》を殺せ、とね。だけど、俺も上から命令を受けている。帝国の《死天使》を殺せ、と」
「ではなぜわたしを殺さないのですか」
ナタリアにしては珍しく、語調が強まった。無理にでも動こうとするナタリアを青年は抑える。それがナタリアには不快だ。
「……戦争を俺は終わらせたいんだ」
ぽつりと青年がこぼした声がいやに響いて聞こえた。意味はわからない。だが、その言葉は聞いてはいけないもののように思えて、耳を塞ぎたくなる。
「よく、わかりません。戦争は、終わるものなのですか?」
戦争しか知らないから、戦争が終わるということが理解できない。
「終わるんだ。今はまだ無理だけど。俺も戦争しか知らない。だから、戦争のない世界が見たい」
青年の藍色の瞳は光を受けているわけではないのに、宝石のようにきらきらと輝いていた。その輝きがあまりにも綺麗でナタリアは手を伸ばそうとする。ピクリとだけ動いた手は力無く、そのままだったけれど。
誰も殺さなくていい世界を、見たくはないか。
青年はそう言った。ナタリアは一瞬、言葉を紡げなくなる。
「……わたしはガンマの暗殺人形です。人を殺める人形です。わたしは何かを選ぶことも、望むこともしません」
「そうか」
その時、ナタリアは青年の誘いを受けなかったが、否定はしなかった。青年も淡々と一言返しただけで、顔色一つ変えなかった。
代わりに少し思う。
この人が知りたい。
それは確かに暗殺人形が初めて抱いた望みだった。
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