ep.009 月下舞踏

 青年は寄り掛かっていた壁から身体を離した。濃紺の空を照らす月明かりが青年の銀髪に降り注ぐ。青年の藍色の瞳が周囲に人がいないことを確認した。


「さてと、やっと2人だけになれたな」


 青年の動く気配を感じていたナタリアは、彼から10歩分ほどの距離を置いて向かい合う。青年の纏う気配は先程までとは一変し、冷たい静寂がその身体を包んでいる。この気配はナタリアにとって親しんだもの。ナタリア自身も纏う死の気配だ。


 ナタリアは腰に手を伸ばす。スカートの下のホルスターに納められた拳銃がそこにある。


 だが、まだだ。


 まだ抜かない。抜けばこちらの手札をさらすことになる。


 青年は微笑まない。刃物のように鋭利な光を藍色の瞳に浮かべて口を開いた。


「君はあの海軍軍人を殺そうとしただろう?」


 彼は予備動作もせず、動きもしていなかったあの時のナタリアの思考をぴたりと言い当てた。ただの陸軍軍人がそれに気づくことなどありえない。ただの暗殺者でさえも。


 ならば、この青年はただの陸軍軍人でも、ただの暗殺者でもない。


 ナタリアは琥珀色の瞳を細めた。


「なぜあなたはわかったのですか?」


 小さく青年は肩を竦める。白に近い月光が石畳を照らす。遠い海は黒いバケモノのようにわずかに光を反射して時折光る。


 問いを発したのは同時だった。


「あなたは──」

「君は──」


「共和国の《死神グリムリーパー》を──」

「帝国の《死天使ヘルエンジェル》を──」


「知っていますか?」

「知っているか?」


 そして、問いに答えたのは青年の方が先だった。


「……そう、俺が《死神》だ」


 ナタリアも問いに答えるために唇を動かした。


「わたしは、《死天使》と呼ばれているそうです」


 本来、暗殺者は名乗らない。たとえそれが二つ名であったとしても。


 殺すのは一瞬。その刹那に、死にゆく人間に何を名乗ると言うのだろう。次の一瞬には死んでいるという人間が何を記録する? 名乗ることに意味などない。


 だからなぜ自分が、こうして彼の問いに答えたのか理解ができなかった。ただ、考えるよりも先に口が動いた。


 それはこの青年が簡単に殺せる人間ではないと頭のどこかで判断したからだろうか。


 だが、もうその判断にも意味はない。


 目の前の銀髪の青年が《死神》であるならば、ナタリアが取るべき行動はただ一つだ。


 ──命令通り、共和国の《死神》を殺します。


 しんと静まり返った白銀の月の真下で、闇に溶けそうな紺色の軍服の青年と、微かに光を受けて光る白いワンピースの少女は同時に動いた。


「……っ」


 反射的にナタリアは身体を横に動かす。僅かに空気を裂いて飛んだ針が頰を掠める。浅い血の線が白い頰を彩った。


 地面に落ちた針を気にせず、ナタリアは姿勢を低くしたまま距離を詰める。その手には薄い銀の刃が握られ、青年の命を刈り取ろうと迫った。


 不意に蹴りがナタリアの手を正確に狙う。ナイフと手を同時に殺す為の蹴り。まともに食らうようなヘマはしない。無理矢理に身体の動きを止め、飛び退る。


 だが、攻防は終わらない。


 青年の手刀がナタリアの首を狙う。その勢いを利用しながら、ナタリアはその腕を絡めて青年を投げる。


 普通なら、投げた時点で戦闘は終わるが、《死神》はそう簡単には崩せないようだった。


 接地した時間はごく僅かに留まり、既に立ち上がってナタリアへ仕掛け直す。流れるような無駄のない動きをナタリアはよく知っているような気がした。


 銀髪の青年と美しい少女は夜に舞い踊る。無駄を削ぎ落として洗練された動きで紡がれる攻防は、一つの舞のようだ。激しい攻撃の応酬は見た目とは裏腹に静寂の中で交わされる。


 だが、2人の戦闘はあまりにも美しすぎる。体重移動、構え、力の加え方、足運び。それら全てが奇妙に一致している。まるで、同門の同じ師を持つ2人が戦っているかのようで。


 ナイフを振るうごと、攻撃を躱すごと、ナタリアの中にも違和感は膨らんでいく。


 こんな思考は戦闘の邪魔だ、と考えることを止める。


 ナタリアはナイフを投げた。銀の刃が風を切って飛ぶ。瞬間、手に握られた小型の銃が閃く。《死神》の青年もまた、銃を握りナタリアと同時に地を蹴った。


 全ての動きが止まる。

 ぴんと張り詰めた緊張の中で2つの人影は手を交差したまま静止していた。


 ナタリアの拳銃の銃口は青年の頭部に、青年の拳銃の銃口はナタリアの眉間に突きつけられている。


 どちらも当たれば死は免れない。


 フッと青年が微笑んだ。


 わからない。なぜこの状況で彼が笑うのか。今、ここで得られる結論は相討ちのみだというのに。


 ……どうでもいいことだ。


 がらんどうの瞳でナタリアは引き金にかけた指に力を入れる。その瞬間、ナタリアは全てを悟った。初手で針を避け損ねた所から任務失敗は決まっていたのだ。


 もうピクリとも動かない手足に感覚はない。ただ身体が鉛のように重く、稼働するには修理が必要だった。


 握っていられなくなった銃がナタリアの手を離れ、地面に金属音を立てて転がる。


 暗く閉ざされていく視界の中、青年が銃を下ろす姿が映った。


 なぜわたしを殺さないのですか。


 声は出なかった。青年はナタリアにそっと囁く。


「暗殺において初手が全てを決める、そう教わっただろ? ナタリア」


 そして、ナタリアの意識は闇に溶けた。

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