ep.008 暗殺人形と綺麗な世界

 青年は悪戯っぽい微笑を浮かべ、ナタリアを見た。


「ただの陸軍軍人だ」


 つまるところ、答える気がまるで無いようだった。


「そうですか」


 諦めてナタリアは一言返事をする。言わなかったということは、言えなかったということに等しい。それが分かっただけで十分だとするのが良いだろう。無駄に踏み込んで記憶に残るのは望むところではない。


「おいで」


 青年が手を差し出す。呆気に取られて琥珀の瞳を見開いた後、ナタリアは青年の白い手袋に向かって手を伸ばした。手が触れると優しく握られる。


「どこに行くのですか?」


「まあまあ」


 疑問の色が濃いナタリアの手を引いて、青年はナタリアに歩調を合わせつつ足を動かした。


 路を埋め尽くす人々の間を縫って、陽光に眩しく映る街並みを歩く。洋裁店、宝飾店、花屋、ナタリアが見たことのないものばかりが視界に映って消えていく。微かに香る潮が鼻孔をついた。


 ふと青年は立ち止まった。


「ちょっとここで待っていてくれるか。何かあったらすぐに俺の方に来てほしい」


「了解しました」


 機械的に命令に答える。敬礼をしかけてピクリと動いた右腕を左手で抑え込んだ。その様子を目にした青年の瞳が、瞬きをするほどの時間で哀の色を映す。ナタリアには青年が目を細めたようにしか見えなかったけれど。青年がナタリアから離れ、紺色の背中が人の波の狭間に消えた。


 そっと目を閉じる。


 街を覆う喧騒がふっと遠のいて、ナタリアの意識は沈む。殺意や血の香り、硝煙の匂いもここには無い。あるのは、人々の温かい気配と食べ物の様々な香りだ。


 全ては自分に必要のないものでしかない。


 このままあの青年を振り切ってしまおうか、という思考が脳裏を掠める。だが、彼の正体が分からないまま離れるのは良くない、と漠然とした予感があった。それは少し、興味、という感情に似ているのかもしれない。


 程なくして青年が戻ってくる気配がして目を開いた。繊細なまつ毛が揺れ、琥珀の瞳が姿を見せる。


「良かった、まだいた。もしかしたら居なくなってるんじゃないかと思った」


 青年は紙袋を持って帰ってきた。彼は端正な顔に微笑を浮かべてナタリアに紙袋を手渡した。


「これは……、なんですか?」


「開けてみてごらん」


 青年に言われるままに紙袋を開くと、甘く香ばしい匂いが広がる。中に入っているのは焼きたてのクッキーが2枚だ。


「どうしてこれを?」


 これを一体どうすればいいというのだろう。持っていればいいのか、それとも食べるべきなのか。混乱したナタリアは瞬きをして青年に答えを求めた。


「君にあげる。きっと、こういうものは食べたことがないだろうから」


「なぜそれを?」


 青年は頭をかいた。


「なんとなく、そう思った。まさか本当だったとはね」


 照れたように笑う青年が言葉を偽っているようには見えない。ナタリアはそれ以上の追及をやめて、クッキーに意識を引き戻す。


「1枚くれるか? もう1枚は君のものだ」


 わかりました、と言いながら、鳥のカタチをしたクッキーを青年に手渡す。きつね色のそれは青年の口にパクリと消える。あっさりと、綺麗さっぱり。


 毒は入っていなさそうだった。


「では、いただきます」


 ナタリアは小さく口を開けて鳥の頭にかじりつく。さくっとした食感の後、優しい味が口の中に広がった。


「……! おいしい、です」


 夢中になってあと数回かじると、クッキーは消えていた。


 初めての味だった。甘いものを与えられるなんてことは今まで一度だって無かったことだ。


「こんなにおいしいものは初めて食べました。ありがとうございます」


 石の壁に寄りかかり、頬杖をついてナタリアを見ていた青年に礼を言う。青年は照れ臭そうに頭をかいた。


「喜んでくれたみたいで良かった」


 ナタリアは首を傾げる。


「喜ぶ、とはこういうことを指すのですか?」


 そんな感情ものは知らない。そう言った瞬間、青年の顔が痛々しく強張った。


「……たぶん、そうだと思う」


 ぽつりと青年は声を落とし、ナタリアから目を逸らして遥か遠くの紺碧に視線を向ける。


「なぜ。なぜあなたはわたしに構うのですか?」


 青年の横顔に問いかける。その唇が躊躇いがちに動いた。


「君が……。君が、俺の知っている人によく似ていたから、放って置けなかった」


「それだけですか?」


 空っぽの瞳が青年をじっと見つめる。青年は頷いてナタリアに微笑んだ。


「それだけ、じゃないかもしれないな。俺は君に世界の一部を見せてやりたかったんだ。ほら、世界は綺麗だから」


 青年は自分の見ていた景色をナタリアに指し示す。


 世界が開けた。


 いつの間にか港街で一番高い場所に来ていたようだった。夕刻を迎え、海に凪が訪れる。海と同じ色をしていた空は紫色に染まり始め、端の方を紅に染めていた。黄昏の海は黄金から青年の瞳と同じ藍色に徐々に変わっていく。


 この世界に満ちる綺麗な色を溶かして放り込んだような、濁りのない混ざり具合。空っぽの暗殺人形の瞳は、純粋に光を映す。


 それから暗くなるまで、ナタリアは食い入るように空と海と色づく街を見ていた。銀髪の青年は、静かにナタリアの隣でたたずむ。ナタリアの気が済むまで、世界を見せるために。


「綺麗だろ、世界は」


 その問いに、ナタリアの脳裏に平原を埋め尽くす青い花が過ぎる。この感覚はその時と同じだ。


「……空と海は眩しくて、胸の辺りがふわふわとした感じがします。これが綺麗、というものなのですね」


 ああ、とゆっくりと青年は頷いた。気づけば周りの人の気配はほとんど無く、青年とナタリアだけがそこに取り残されていた。

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