ep.006 暗殺人形と幻想の青
カタンカタン、と小刻みに汽車は揺れる。煤の黒が混じった煙はもくもくと吐き出され、青い海の上に架けられた鉄橋を越えていく。緑色の森林を抜けた先、視界を埋め尽くしたのは、見渡すばかりの青の花だった。
汽車の中だというのに、広いツバのある帽子を脱ごうとしない少女は窓の外に視線を向ける。赤みがかった琥珀色の瞳が、青色であふれた。
ほう、と感嘆の溜息が人形のような少女の口からこぼれる。
花の名前は、アイリスというのだろうか。
平原を青に埋め尽くす幻想的な光景は、白昼夢を見ている気分にすらなるほど見事なものだった。
ナタリアは花を形容しようとして心に湧き上がった感覚に名前をつけてみる。
あの花は『きれい』だ、と。
終わらない戦争の中、こうして美しく咲き誇る花畑もあるのだとナタリアは初めて知ったのだった。
きれいなせかいも、確かにあるのだ。知らないだけで。
でも、その世界はナタリアには眩しすぎる。
ナタリアはそっと
背中を座席に預け、汽車の振動に身体を委ねる姿は、本物の人形と同じように微動だにもしなかった。
次にナタリアが目を開けたのは、汽車が街に入ったところだった。いつのまにか青い幻想の海を抜けて、黒い鉄のカタマリは街へと差し掛かる。
共和国の港街、リンツェルンだ。蒼海に面した街は共和国の交易を担う重要都市で、また軍港を備えてもいる。地続きの帝国と共和国が海で戦うことはほぼないが、警戒しておくに越したことはない。
「まもなく、当列車はリンツェルンに停車致します」
紺の帽子を被った車掌がそう言って通路を通り過ぎていった。ナタリアは足元の鞄を持ち上げ、膝に載せる。桃色のリボンをあしらった帽子を被り直した。
がったん、と一際大きく車体が上下すると、蒸気の音をさせて汽車はその動きを止める。同時にナタリアも座席を立った。
「お手をお貸しいたしましょうか? レディ」
若い青年が微笑みながら汽車を降りようとするナタリアに手を差し出す。なぜ、と疑問が浮かんだ。この手に何の意味があるのか、理解できない。ただ、答える。
「必要ありません」
何の起伏もない声でナタリアは答えた。青年の微笑みが強張り、怒気を微かに漂わせる。彼は顔に自信があったのだ。それを無感情に跳ね除けられて自尊心が傷ついた。そんなこと、空っぽな暗殺人形には
ナタリアは青年を一瞥すると、歩みを進めた。
「……おいっ!」
後ろで青年が追いすがるように声を上げる。振り返り、冷たい瞳で彼を射抜いた。青年の顔が恐怖を浮かべ、伸ばした手は空中で静止する。最後にナタリアは軽く頭を下げてみた。これで気を取り直してくれれば良いのだが。
青年へ無駄な意識を割くことをやめ、ナタリアは歩き出す。石畳の上をブーツの
人々は忙しなく道を行き交っていた。風に乗ってビラが空から降り注ぐ。上空からのエンジン音、つまり飛行機がばら撒いているのだろう。空をふと見上げると、白の塗装が施された共和国の鉄の鳥が旋回していた。
舞い降りる紙切れを拾う人はほとんどいない。リンツェルンの人々にとって、もうこれが日常の光景になっているのだろう。ナタリアは綺麗な白い指先で空を舞うビラを捕まえた。
“共和国万歳! 共和国に勝利あれ! 停戦は終わろうとしている。共和国民は栄光ある戦いに命を捧げよ!”
つまり、ナタリアがこの時期に《死神》の暗殺を命じられたのにも意味があったのだ。もしかすると、《死神》も自分の暗殺を命じられていることだってあるのかもしれない。だとしたら、この任務の終わりもそう遠くはない。
強い風が吹いた。
ナタリアは戦を称える紙切れをそっと離す。くるくると所在なさげに
帽子が飛び、ナタリアの赤茶の髪が広がった。即座に帽子は掴み取るが、顔が露わになったナタリアは自然と周囲の視線を集めてしまう。
早く、ここから離れなければ。
顔のない人形として在れ、と教えられた。暗殺者にとって、顔を憶えられてしまうのは致命的だ。それがたとえ少女の浮世離れした美しさに見惚れる視線であったとしても。
帽子を目深に被ってナタリアは顔を隠した。冷徹な美を宿す少女の顔が見えなくなって、人々はいつも通りの動きを再開していく。
「君さ、ヒマ?」
突然男に声をかけられた。見れば、数人の男が温かな笑みを浮かべてナタリアの周囲を囲んでいる。
「暇、というのが、することもなく手持ち無沙汰であるという意味なのでしたら、暇であるとお答えするべきでしょうか?」
淡々と答えて、男たちの輪から抜け出そうとすると、前方にやはり男が立ち塞がった。
そこで初めてナタリアは男たちの姿を確認する。白に紺のラインが入れられた軍服。兵士はこの辺りでは少ないように見受けられるが、この街は軍港がある。こうして海軍の兵士が出歩いているのも何ら不思議なことではないようだ。
「こっちに行こうよ。君、ヒマなんだろ?」
「はい。わたしは暇ですが……」
「じゃあ行けるよね」
グイと華奢な少女の手を男は掴んだ。男に囲まれるようにしてナタリアは路地へと連れ込まれる。
彼らがやろうとしていることは明白だった。世間知らずの美しい少女を手折る。それを愉しみとするのだろう。
確かにナタリアは、なぜ自分がこうして見知らぬ人間に手を掴まれて連れて行かれるのか、理解していなかった。
日光が遮られて暗くなり、そして空気の温度が下がる。同時に変わるのはナタリアを見る男たちの視線。荒れた光が彼らの瞳に浮かぶのを見た。
しゃきん、と携帯ナイフが引き抜かれる音が響く。
動こうとしないナタリアの首にナイフを当てがう。それでも泣き叫びもせず空っぽな琥珀の瞳で男たちを見つめる少女に、彼らは微かに恐怖した。
彼らは獲物を間違えた。目の前にいるのは可憐な花などではない。
暗殺人形だ。
冷え切った頭でナタリアは男たちの殺し方を考える。この服を汚してしまわない、きれいな殺し方を考えようとしたその時だった。
「君たち、その子は俺の連れだ。離してやってくれないか?」
知らない声がした。ナイフで首を傷つけないように目だけを動かして声の主を見る。
青年がいた。紺地の軍服を纏った銀髪の青年の瞳は、深い夜のような藍色だった。
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