第72話 予感⑯
「雪」
無意識と意識の狭間で聞こえた私の名前は、柔らかで静かな声音に滲んで、どこか遠くの世界の言葉のように響いた。
目を開けると、見慣れた自分の部屋の天井がぼんやりと視界に入ってきた。
視線をゆっくりと左にずらせば、そこに彼がいた。
「
「すこし苦しそうにしていたので、思わず声を掛けてしまいました」
起こしてしまいましたね、と申し訳なさそうに私を見つめる表情はいつもの穏やかで、優しい白角さんだった。
私を見つめたまま、額に大きな手を乗せる。
「熱は、ないようですね」
一瞬、どきっとして体が強張ったけれど。
白角さんの手はどこか想像通りひんやりとつめたくて、眠っているうちに汗ばんでいた私には心地良くて、また瞼を閉じた。
「……すみません、驚かせましたか?」
白角さんの声に目を開けて、首を横に振る。
「ちょっとびっくりはしたけど、大丈夫」
白角さんはすこし考え込むようにして、上を見上げた。
「……もしかして、僕のこういうところをあの人は言っているのかな」
「あの人って?」
「僕よりも、強い人」
白角さんは目の端を緩めて静かに微笑んだ。
「白角さんよりも強い人なんて、いるの」
想像がつかない、と私が呟くと、白角さんはそうですね、と首を傾げた。
「正直、弓術も剣術も僕の方が上だと思いますが」
白角さんが目を細める。
「あの人は、僕よりもずっとずっと、優しいから」
優しい。
私は心の中で繰り返した。
「雪にもいるでしょう。自分よりも優しくて、昔も今も変わらず、心の真ん中にいてくれる人が」
はっとして、白角さんを見返す。
「おじいさまが、あの弓をくださったんですね」
白角さんは穏やかな眼差しで、部屋の隅に立て掛けてある弓を見つめていた。
弓は小豆色の
私は頷いた。
「……去年の春、高校に上がる前だった。おじいちゃんは入院が決まっていて」
東京には桜の開花宣言が流れていて、街は春の訪れに浮足立っていたのに、私は。
「病院に入る前に、合格祝いを買おうって言ってくれたの。もう、あの時はかなり痩せちゃって、動くのもやっとだったのに。おじいちゃんはいつも私のことばかり」
子どもの頃からずっと見上げてきた大きな背中はいつからかちいさく、薄くなっていた。
移動は負担になるからと止めたのに、おじいちゃんも一緒に行くと言ってきかなくて。
細くなってしまった身体を折りたたむようにして、お母さんの車に乗って、弓具店に向かった。
「あの弓は今の私にはまだ、重くて引けない。もっと筋力をつけて、もっと上手くなってから、引くの」
わざと、重い弓を買ってもらった。
初心者が買うのは早い、もっと経験を積んでからと、お店の人には止められたけれど。
今、この子に買ってあげたいんです、私がいるうちに、と言ったおじいちゃんを見て、お店の人は察したようだった。
弓は、すぐに引けないものの方が良かった。
だってそうすれば、その弓が私の、すこし遠い未来にいてくれるような気がするから。
おじいちゃんが私の前からいなくなったとしても、未来で待っていてくれるような気がするから。
「弓矢は、魔を祓う」
破魔の力があるから、と白角さんが呟いた。
「弓と一緒に、矢も対にしておくといい。僕の矢を一本あげましょう。腕の長さが違うから、雪には合わないけれど」
「……嬉しい。白角さんの矢があったら、もっと強くなれそう」
そう言うと、白角さんの目尻が下がった。
「強くなることは、大事なことです。でも」
白角さんがそっと私の頭に手を置いた。
「雪の好きなことが、好きな人が、雪を強くするから。強さよりも心から感じる自分の好きを求めて、大丈夫です」
私の、好き。
それは。
「白角さん」
はい、と白角さんが微笑んで私を見た。
その顔を見たら、それ以上何も言えなくなって。
顔がまた火照るのを感じて、私はまたぎゅっと目を瞑って、隠すようにして掛け布団を引き上げた。
「……ラヴェルを、聴きながら寝ます。そこのスピーカーをつけてくれますか」
私が布団の中でもごもごと話すと、白角さんはまたはい、と優しく応えて。
お父さんが家を出る時に置いていった、古いマーシャルのスピーカー。
ぶつっと音が鳴って、白角さんが電源を入れてくれたのが分かった。
コードに繋いだまま枕元に置いていたスマホを、布団の中で操作する。
「今日は色々あって疲れたでしょうから。ゆっくり休んでください」
白角さんの静かな声が上から降ってくるのと同時に、部屋の中に軽やかなピアノの旋律が流れ始めた。
「水の戯れ」
白角さんがそっと呟いたのが聞こえた。
時折、力強さを滲ませながら奏でられるその調べに、光に照らされて輝く水面の煌めきが見えるような気がした。
それは先程まで見ていた湖の底に射す光と、身体を包んでいた柔らかな水の夢を思い出させて。
あの大きな角を持った魚は、今はどこを泳いでいるのだろう。
そして、あの高く澄んだ鳴き声は。
夢で出会った幻影に誘われながら、私はいつしかまたまどろみの中へと入り込んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます