第71話 予感⑮

夢を見ていた。

頭のどこかでこれは夢なのだと分かっていたのだけれど。

意識は薄くヴェールが掛かったように曖昧にぼやかされて、心は覚めることを拒んでいた。


 ここでなら会えるから。

 まだ、目を覚ましたくはない。


私は首を振って辺りを見回す。

それはひどくのろのろとした動きだった。

なぜ夢の中だといつも、こんなにも動きが緩慢になるのだろうか。

まるで水の中にいるみたいに四肢はもつれて。

そのもどかしさに思わず泣き出したくなる。


 どこにいるの。


私は空を仰いだ。

ここが外かどうかなんて本当は知らないはずなのに、ずっとずっと上には空が広がっていることを私は分かっていた。

仄白いそらからは、細々とした光がはらはらと降り注いでいた。


 会いたい。


私はその光に手を伸ばす。


 もう一度だけでも。


 ××××××


私はその名を叫んだ、はずなのに。

あの日の電車の中でのように、声は体の奥の方で澱のようにこごって、口は虚しく上下に動くだけだった。


 会いたい。


さっきまで息は十分できていたはずなのに。

なぜか今は呼吸することが苦しくて、目にうっすらと涙が滲んだ。


 会いたい。

 どこにいるの。


 ピューイ、ピューイ


遠くの方で高く澄んだ鳴き声が聞こえた。

 

 あれは、鳥の声?


私は耳を澄ます。


 ピューイ、ピューイ


どこかもの悲しくも聞こえるその声に、きゅっと切なさが押し寄せてくる。


 ピューイ、ピューイ


 ここだよ。

 私はここ。


声のする方に向かって、思い切り手を振る。


 ピューイ、ピューイ


淡く、儚い光が、砂地の上で踊った。

私は必死に目を凝らす。


そうだ、ここは湖の中だった。

私はその、底にいて。

空は水底の私にまで輝きを届けてくれるけれど、思うよりもずっとずっと遠く、上にあったんだっけ。

 

 ピューイ、ピューイ


 あの声は、きっと。


柔らかな光に満ちた湖の底をそっと蹴るとふわりと砂埃が舞い、身体はいとも簡単に浮かびあがった。

光の射す方へと手を伸ばして、足をゆっくりと交互に動かしながら水面を目指す。


 あそこには、あの人が。

 水鏡のような瞳を持つ、あの人が、きっといる。


その時目の前を大きな角を持つ、透明な魚が通り過ぎた。

はっとして振り返り、目で追う。

魚は透明な角を刀のように滑らかに光らせ、そして放たれた弓矢の矢筋のように、細く長い残像を残しながら尾びれを揺らしてゆるゆると泳いでいく。


 私に、弓をくれた。


 おじいちゃん。


声が。

声が、身体の、心の奥底から湧き出た。


「おじいちゃん」


「雪」


そして私は、目を覚ました。

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