第70話 予感⑭
◇
関所内の古びた剣道場では、道着姿の男が一人、竹刀を握って
男が腕を振り下ろす度、竹刀はしゅんっと音を立てて空を切り裂き、道場の床は大きな足に
むき出しになった形の良い額と長い首には、うっすらと透明な粒が光っている。
「お前が怒ると、怖いな」
背中越しに掛けられた声に動きを止めて振り返れば、道場の入り口に黒のダウンジャケット姿の男が、ポケットに手を突っ込んでもたれかかっていた。
「昔から知ってたけどな」
「烏丸隊長」
烏丸は手を挙げて応えると、革靴を脱いで中へと入ってきた。
道場の隅に置かれていた手ぬぐいを手に取ると、手の甲で額の汗を拭う男に放ってやる。
「何が怖いって、怒ると一人称が変わるところが怖い」
掴み取った手ぬぐいで首筋をゆっくりと拭いながら、ふっと男が笑った。
「牝鹿を守る牡鹿は、多少気が荒くなるものです」
多少、ねぇ、と呟いた烏丸に男が頭を下げた。
「『
烏丸が首を横に振る。
「俺が代わりに出ても良かったんだが。あの狭い車内じゃなあ。余計周りを混乱させるだけだと思って、
「後で、僕からもお礼を言いに行きます」
男は頷いた。
烏丸がおもむろに口を開く。
「あのお嬢さんは」
「あの後、母親が来て、引き取っていきました」
「そうか、流石に来たか」
「はい。とはいえ雪が心配なので、これから此岸へ行くつもりですが」
「
ふと名を呼ばれて、男は額に当てていた手ぬぐいを外して烏丸を見た。
「はい」
「天然の人たらしに何を言っても無駄だとは思うが」
「はい?」
「……お前といると、男でも女でもみんなお前に首ったけになる。自覚はしとけ」
はて、と月鹿は首を傾げた。
「一体なぜなのか、自分でも不思議ですが」
「後宮、あっちの言葉で言えばハーレムか。強くて力のある牡鹿にとって、一夫多妻は自然の摂理なんだろうが」
烏丸はちいさく溜め息を吐く。
「俺からしてみれば、お前は見ていて肝が冷えるというか、その、相手を思うと胸が痛むというか。見ているこっちは何かと気を揉むことが多いんだ」
しかも今回は女子高生、免疫が無さすぎる、と烏丸はぼやいた。
「やり方に口出しするのは性に合わないが、その、なんだ。あんまり、お嬢さんを翻弄するな」
「はい……?」
月鹿は心底不思議そうに、首を傾げた。
「だから、お前のその、やたら距離が近いところ、ちょっと謎めいた美青年キャラみたいなの、抑えろっていうか」
「はい……?」
月鹿はいよいよ訳が分からないといった面持ちで、首を傾げる。
「……もういい。俺からはうまく伝えられない。今度、
烏丸はそうぼやくと、この目の前の強く美しい、そして鈍感な牡鹿をどうしたものかと眉を上げて見やり、今日何度目かの溜め息を吐いた。
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