第70話 予感⑭

関所内の古びた剣道場では、道着姿の男が一人、竹刀を握って素振すぶりをしていた。

男が腕を振り下ろす度、竹刀はしゅんっと音を立てて空を切り裂き、道場の床は大きな足にられてきゅっと、小気味良く鳴った。

むき出しになった形の良い額と長い首には、うっすらと透明な粒が光っている。


「お前が怒ると、怖いな」


背中越しに掛けられた声に動きを止めて振り返れば、道場の入り口に黒のダウンジャケット姿の男が、ポケットに手を突っ込んでもたれかかっていた。


「昔から知ってたけどな」


「烏丸隊長」


烏丸は手を挙げて応えると、革靴を脱いで中へと入ってきた。

道場の隅に置かれていた手ぬぐいを手に取ると、手の甲で額の汗を拭う男に放ってやる。


「何が怖いって、怒ると一人称が変わるところが怖い」


掴み取った手ぬぐいで首筋をゆっくりと拭いながら、ふっと男が笑った。


「牝鹿を守る牡鹿は、多少気が荒くなるものです」


多少、ねぇ、と呟いた烏丸に男が頭を下げた。


「『密蜂みつばち』、手配してくださってありがとうございました」


烏丸が首を横に振る。


「俺が代わりに出ても良かったんだが。あの狭い車内じゃなあ。余計周りを混乱させるだけだと思って、蜂須賀はちすがに頼んだ。不破も間に入っているから、向こうでも問題なく終わっているはずだ」


「後で、僕からもお礼を言いに行きます」 


男は頷いた。

烏丸がおもむろに口を開く。


「あのお嬢さんは」


「あの後、母親が来て、引き取っていきました」


「そうか、流石に来たか」


「はい。とはいえ雪が心配なので、これから此岸へ行くつもりですが」


月鹿つきじか


ふと名を呼ばれて、男は額に当てていた手ぬぐいを外して烏丸を見た。


「はい」


「天然の人たらしに何を言っても無駄だとは思うが」


「はい?」


「……お前といると、男でも女でもみんなお前に首ったけになる。自覚はしとけ」


はて、と月鹿は首を傾げた。


「一体なぜなのか、自分でも不思議ですが」


「後宮、あっちの言葉で言えばハーレムか。強くて力のある牡鹿にとって、一夫多妻は自然の摂理なんだろうが」


烏丸はちいさく溜め息を吐く。


「俺からしてみれば、お前は見ていて肝が冷えるというか、その、相手を思うと胸が痛むというか。見ているこっちは何かと気を揉むことが多いんだ」


しかも今回は女子高生、免疫が無さすぎる、と烏丸はぼやいた。


「やり方に口出しするのは性に合わないが、その、なんだ。あんまり、お嬢さんを翻弄するな」


「はい……?」


月鹿は心底不思議そうに、首を傾げた。


「だから、お前のその、やたら距離が近いところ、ちょっと謎めいた美青年キャラみたいなの、抑えろっていうか」


「はい……?」


月鹿はいよいよ訳が分からないといった面持ちで、首を傾げる。


「……もういい。俺からはうまく伝えられない。今度、巌虎いわとらあたりに言ってもらうことにする」


烏丸はそうぼやくと、この目の前の強く美しい、そして鈍感な牡鹿をどうしたものかと眉を上げて見やり、今日何度目かの溜め息を吐いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る