第69話 予感⑬

JR線のホームは相も変わらず沢山の人で溢れていた。

一本見送ろうかとも思ったが、早く自分の部屋で休みたい気持ちが勝つ。

人波に揉まれるようにして、大きく口を開けた電車に飲みこまれる。


車内はぎゅうぎゅうで、つり革に掴まるのがやっとだ。

満員電車では、ヘッドフォンは外すようにしている。

音は漏れない自信があるのだけど。

外で音楽を聴くという行為は、極めてプライベートな空間をある意味強引に、その場に瞬間的に作り出せることだと思う。

他人との距離が極端に否応なく狭まる状況で、そこに自分の空間を持ち込んでしまえることに、些か抵抗があった。

何となく、自分が無断で他人の領域を奪っているような気がする。

入学して間もない頃、それを北野に言ったら考えすぎだと笑われたけど。


─イヤフォンならいいの。ちいさくて、まだ目立たないし。

でもヘッドフォンだと、主張している気がしない?


─主張って?


北野が面白がるような顔で首を傾げる。


─私はあなた達のことなんて、なーんにも気にしてませんよっていう主張。

ここには私以外いませんからねっていう主張。


─傍に、人無きがごとし。


─え?


今度は私が首を傾げる。

北野の目が細くなる。


─『傍若無人』。

そう振舞うのが嫌なんだ、遠坂は。


ああ、と私は頷いた。


─遠坂らしいね。

まぁ、ちょっと考えすぎかなって思うけどさ。

そういう感覚、俺は良いと思う。


そういえば、最後に北野はそんな風に言ってくれたんだっけ。

アナウンスが流れて、扉が閉まった。

電車が動き出し、私はそっと目を閉じる。

今日あった出来事が頭の中で勝手に、まるでショートムービーのように流れ始める。


初めて見た、白角しらつのさんの欠伸。

嬉しかったのに、すぐしぼんでしまった私の気持ち。

まさきさんから聞いた、多分、初めてのあだ名。


─そう、弓の王子。私がつけた。


柾さんの砂糖菓子の声が、頭の中に響く。


─素直な女の子は可愛いですよ。


朝の弓道場。

白角さんの朗らかな声が頭の上から降ってきて。

そしてやっとの思いで顔を上げれば、そこには彼の……。


ぞわり。

 

全身が粟立った。

一瞬にして甘い記憶は消え去って、身体が、頭が、一斉に警報を鳴らす。


コートが、めくり上げられている。


スカートの下、自分の腿の辺りから、虫が這うような不快感が全身を貫いた。


触られて、いる?

思考が停止する。


鞄か、何かが、当たっているだけ?

そうであってほしい。

頭の中に幾つかの可能性と、薄い希望と、儚い願望が駆け巡る。


……いや、違う。


これは。

これは、紛れもなく、人の手の感触だ。


ざっと、一気に血の気が引く。

振り返りたいのに、振り返れない。


スマホ? 

こういう時って録音、動画を撮ればいいんだっけ。

隣の人に助けてもらう?

確か、おじさんとかお姉さんって叫んで、特定の誰かに向かって助けを求める方がいいって……。


頭にはこれまで聞いたことのあるたくさんの正解が浮かび上がるのに。

ばらばらに取っ散らかって、どれも掴めない。

声を上げたくても、自分の口はぱくぱくとちいさく開いたり閉じたりするばかりで、何の役にも立たなかった。

その不快感は、そんな私の様子を見ながらじわじわと腿を伝って、ゆっくりと上がってきた。


嫌。

嫌だ、来ないで。

怖い。


誰か。

誰か、助けて。


その時。

ぶうん、と虫の羽音が聞こえた。


冬なのに、虫?

変なの。

あ、電車の中は暖かいから、ここでなら虫も冬を越せるのかもしれない。

こんな時に、そんな間の抜けたことを思った。


「雪」


ぐっと身体を大きく引き寄せられて、そして太腿に張り付いていた不快感が消えた。


「あんた、何してんの」


驚いて見上げれば、白角さんの顔がすぐ上にあった。

白角さんは私の頭越しに見たこともないような鋭い視線を、ナイフのように突き立てていた。


車内がざわめいた。

満員だったはずなのにさっと人が引いて、私と白角さんの周りに空間ができる。


「俺は、何も」


白角さんは右手で、私の頭を庇うようにして抱えながら、左手では声の主の手を掴んでいるようだった。


「嘘を吐くな」


静かだけれど、凄みのある声がすぐそこにある白角さんの身体の中から響く。

私を抱き寄せる白角さんの身体は、熱かった。


「見たよ。あんたがこの子のこと、触ってるの」


「誤解だ。放せよ」


私の後ろで、声を荒げる男の人の声がした。


「往生際が、悪いね」


白角さんはそう言うと、左手を持ち上げた。


「いててて」


男の人は手を捻り上げられてでもしているのか、悲痛な声を上げた。


思わず振り返りそうになると、白角さんはそっと右手で私の頭を自分へと向け直して、微笑んだ。


「雪は、見なくていい。このまま僕だけを見ていて」


そう言うと柔らかな笑みは瞬時に去って、氷のようにつめたい光が白角さんの瞳に宿ったのが見えた。


「警察にも知らせた。あんたも俺も、次で降りるんだ。逃げられると思うな」


後ろで男の人が諦めたように、うめき声を上げたのが聞こえて。

そして海の底のように静まり返った電車が、次の駅に着いた。


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