第68話 予感⑫

がたん。

電車が動き出して、窓の外の世界は少しずつ過去になって、私を忘れていく。

車内には同じような部活帰りの高校生達が数人、まばらに座席に座っている。

携帯をいじったり、友人同士で他愛もないおしゃべりをしたりして、みんな思い思いに過ごしている。


私は電車の窓に目を戻した。

ひんやりとした冷気が、扉の隙間から細く伝って頬を撫でる。

暖房の効いた温い車内とは違って、外はしんとした冬の寒さに満ちていた。

少しずつ日は長くなってきているとはいえ、辺りは暗く、細々とした住宅街の明かりが寂しい冬枯れの街並みを慰めている。


けれど、ものの十分もしないうちに、電車は不夜城が建ち並ぶ深い谷へと滑り込むことを、私は知っている。


乗り換えで使う渋谷駅は平日だろうが休日だろうが、朝だろうが夜だろうが、沢山の人でごった返している。

進学を機に去年の春から始まった電車通学は、正直最初は堪えたけれど。

今は自分の中にある、感情のスイッチのようなものを切れば、半ば無意識に動けるようになって、楽になった。

それが慣れというものなのか。

そしてそれが果たして良いことなのか、私にはよく分からない。


ホームに辿り着いた電車が止まって、扉が開く。

渋谷駅の西側にある京王井の頭線は、所謂離れ小島的な位置にあって、どの線に乗り換えるでも、私の足で五、六分はかかる。


視界が一気に縦に広がる。

中央改札から出た構内の天井は高くて、なんだか巨大な水槽みたいだなといつも思う。

まるで上から誰かに覗き込まれているような気がして、すかすかしてどうも落ち着かない。


水槽を泳ぐ魚もこんな気持ちになるのだろうか。


そんなことを頭の端で思いながら、JR線に乗り換えるために出来るだけ人の波に乗って駅の中を泳ぐ。

黒のヘッドフォンからは、最近よく聴いているクラシックが、行き場のない心細さを拭うように、私の中に優しく流れ込んでくる。


ラヴェルの、亡き王女のためのパヴァーヌ。


白角しらつのさんが、教えてくれた。

あれは、私が弓道場で、ぽつりと弱音を吐いた時だった。


最近あんまり、眠れないの。


寝不足がたたって、硬く強張りがちな身体に眉をひそめながら弓に弦を張る私を見て、白角さんが口を開いた。


雪は音楽が好きだよね。

よく、耳に付けている。


そう言って大きな手で、自分の右耳を軽く覆うような素振りをしてみせた。


ああ、ヘッドフォンのこと?


白角さんは微笑んで、頷いてみせた。


僕もさ、音楽は好きなのだけど。たまに声が苦しいことって、ない?


声が、苦しい?


私は首を傾げた。

白角さんは穏やかに微笑を浮かべたまま、そう、とちいさく呟いた。

 

声には、体温がこもるから。


体温。


私はそっと繰り返した。


歌っている人の体温が宿るというのかな。

それを受け止めきれない時が、僕にはある。


白角さんは、ゆっくり目を閉じた。


そういう時は、楽器の奏でる音だけに身を浸したくなるんだ。

僕と音の調べしかない世界はすこしつめたくて、でもそれが心地良い。


白角さんの涼しげな目が優しく開いた。


孤独からくる独りは寂しいけれど、選んだ一人は、時に自分をこの上なく満たす気がする。


白角さんが言っていることがちゃんと理解できたかは分からないけれど、でも、何となく分かるような気もした。


そういう時、白角さんは何を聴くの?


白角さんはすこし上を見て、顎に軽く手を当てて、考えるような素振りをした。


好きな音楽家も曲も沢山あるけれど。

この季節に聞きたくなるのは、ラヴェル、かな。


ラヴェル?


私が聞き返すと、白角さんは静かに微笑んだ。


亡き王女のためのパヴァーヌ。

冬の空気のように透明感があって、静謐な柔らかさがあって、好きなんだ。

眠りにつく前、音を絞ってかけている。


それから私は、ラヴェルを聴くようになった。

白角さんが持つ静けさを音の中に感じれば、不思議と不安はほぐれて、どこか遠いところに行ってしまうような気がして。

私は電車から吐き出されるようにして泳ぐこの大きな水槽の中でも、そして一人で眠るベットの中でも、調べに身を任せて、穏やかに漂えるようになった。

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