第66話 予感⑩
弓道場のシャッターを開くと、その弾みで屋根に積もった雪がふわりと浮かび上がり、中へと舞い込んできた。
いつもは芝生が広がる矢道──射場から的場までの矢が飛んでいく場所──に積もったまっさらな雪は朝の陽の光を浴びてしらしらと輝いている。
昨日危ぶまれていた降雪はそこまでひどくならず、電車は遅れはしたものの朝からなんとか動いていた。
後ろを振り返ると、白角さんがマッチを擦って、石油ストーブに火を点けているところだった。
中の炎が赤く燃え上がって、白角さんがふっとマッチの火を消した後、ふあ、と気の抜けたちいさな声が聞こえた。
「珍しく、眠たそうですね」
彼が欠伸を嚙み殺す顔を初めて見た気がする。
火の消えたマッチ棒を握りしめたまま、拳で口許を隠しながら顔を歪めたその姿がなんだか可愛らしく思えて、そして嬉しかった。
「……実は昨日夜更かしをしてしまって。先輩やら後輩やらと、大分遅くまで話し込んでしまいました」
お恥ずかしいところを、と白角さんが照れたように笑った。
「先輩、後輩」
ついさっきまで暖かくてぽかぽかしていた気持ちが、一瞬にしてしぼんでしまうのを感じた。
私には白角さんしかいないけれど、当たり前だけれど、白角さんはそうじゃない。
そりゃ、夜更かししてしまうくらい、仲の良い人だって、いるよね。
そんなの当たり前のことだ、当たり前の……。
ふと黙り込んでしまった私の顔を白角さんが覗き込む。
「わっ」
突然視界に白角さんの整った顔が飛び込んできて、反射的に後ろにのけ反ってしまう。
「……何か、しょうもないことを考えていますね?」
「えっ」
私はまたびっくりして、白角さんをまじまじと見た。
「なんで分かるの? 白角さんってエスパー?」
えすぱー、と白角さんは繰り返した。
「分かりますよ。雪は思っていることがすぐ顔に出るから」
「そんな分かりやすいかな」
白角さんはふっと微笑んで、頷いた。
「恥ずかしいなあもう。それって頭の中が透けているってことでしょ」
私は両手で頭を抱えてうつむいた。
「素直な女の子は可愛いですよ」
頭の上から白角さんの朗らかな声が降ってきて。
私はもう、顔を上げられる気がしなかった。
◇
「遠坂さん、なんだか今日は嬉しそう」
一時間目が終わって、次の体育の授業のために更衣室へ移動していた時だった。
「そ、そうかな」
また、透けていたのかもしれない。朝の白角さんとのやりとりを思い出して、咄嗟に頭に手を当てる。
「……遠坂さんって、ショート似合うよね」
そんな私を見ながら、柾さんは今日も綺麗に巻かれた巻き髪をつまんだ。
「私は短いの、似合わないから。憧れちゃうな」
私はびっくりして、そして頭が透けるのも忘れて、柾さんを見つめた。
「柾さんが? 私に?」
「うん」
柾さんはさも当たり前だというように頷いた。
「信じられない」
なんで、と柾さんがころころと笑った。
「だって、私が柾さんに憧れるのは当然のことだけど。その逆はないよ」
「どうして」
柾さんは不思議そうに首を傾げた。
「遠坂さんはかっこいいよ。ショートが似合うのも、背が高いのも、マーシャルのヘッドフォンで音楽を聴いてるのもね」
「柾さん、マーシャル知っているの」
思わず柾さんの顔を見てまじまじと見つめる。
マーシャルは半世紀以上、著名なミュージシャン達から愛されるイギリスの名の知れたブランドだが、彼女が知っているのは正直意外だった。
身内にね、好きなのがいるのよ、と柾さんは頷いた。
「そしてべたべた、女子とつるまないのも、かっこいいと思う」
今度はすこしだけ声を抑えながら、柾さんはにっこり笑った。
ビューラーで綺麗に上げられた長い睫毛が揺れる。
「遠坂さんのあだ名ね、王子」
「王子ぃ?」
思わず声を上げてしまう。
「そう、孤高の、弓の王子。私がつけた」
唖然としている私を見て、良いでしょう、と柾さんは微笑んだ。
「もちろん褒め言葉よ。運動神経も良いし、休み時間に誰の目を気にするでもなく早弁してるのも、私は良いと思う」
柾さんはそう言うと着替えるの遅いから先に行くね、と小走りに駆けていった。
ふわりと甘い香りが柾さんの走っていった後に漂う。
私はその華奢な背中を見送りながら、今日は朝から思いもしないことが続けて起こるものだとぼんやり思った。
そしてどこか胸の高鳴りを抑えられずにいる自分もいて。
そんな自分に久しぶりに会えたことに驚きつつも、じわじわと嬉しさが身体を満たしていくのを感じていた。
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