第65話 予感⑨

赤いのれんと提灯がぶら下がった屋台の周り一帯には、何やら赤茄子を煮込んだようなとろりと甘い香りと、食欲をそそるにんにくの香ばしい匂いが立ち込めている。


屋台には、新雪のように白く滑らかに光る長髪を一つに束ねた男が、一人静かに座っていた。

白のセーターと紺色のスラックスを品良く着こなした男が、背筋をぴんと伸ばし、赤提灯に照らされている姿は些かちぐはぐな光景だった。

男はちいさな取っ手のついた深皿に手を添え、皿の中の赤い汁物を銀の匙でゆっくりと掬い上げ、優美な物腰で口に運んでいる。


雪狼ゆきおおかみさん。お疲れさまです」


声を掛けられて、匙を皿に置いて男が振り返る。

その切れ長の琥珀色の瞳が、声の主を見上げた。


月鹿つきじかか」


そこには黒髪の、すらりと背の高い弓道着姿の青年が立っていた。

手には古い竹の弓を握り、漆塗の藤製の矢筒を肩に掛けている。

月鹿と呼ばれた青年は男にゆっくりと会釈をすると、お隣よろしいですか、と微笑んだ。

雪狼が黙って頷くと、月鹿は屋台の端に弓矢を立て掛けて、彼の隣の丸椅子へと座った。


「鹿の兄さんも葡萄酒、いける口でしたよね」


黒い和帽子を被った作務衣姿の屋台の親父が、月鹿に向かって酒瓶を持ち上げて見せた。


與土よどさん、こんばんは。僕は今高校生なんで。今晩はやめておきますね」


月鹿は少々残念そうに、だがきっぱりと断った。


「高校生。お前がですか?」


雪狼が首を傾げながら、隣に座る青年を見た。


「はい。いけるでしょう?」


月鹿はにっこりと微笑んだ。


「鹿の兄さんは細面だし、まあ大丈夫じゃないですかね」


與土はそう言うと、大鍋から皿に赤い汁物をよそって、銀の匙と共に月鹿の前に置いた。

ありがとうございます、と月鹿が礼を言う。


「もう少ししたら、がーりっくとーすとが焼けます。今ぐらたんも準備してますんで」


與土が屋台の下を覗き込むようにして身をかがめた。


「これはまた。赤茄子……とまと、すうぷでしたっけ」


月鹿は匙を手に取ると、そっと皿の中に入れる。

赤いスープの中には煮込まれでくたくたになったトマトの他に、角切りされたセロリやキャベツ、人参が所狭しと顔を覗かせていた。


「はい。狐の旦那が好きだったやつです。みねすとろーね」


與土は顔を上げて頷きながら、屋台の下から炭酸水のペットボトルとグラスを取り出した。

これでいいですかい? と月鹿に尋ねる。


「そちらでお願いします。そういえば一時期、赤狐さんはこればっかり食べてましたね」


月鹿は匙でそっとスープを掬うと口に含んだ。

トマトベースの甘酸っぱさと、爽やかなセロリの苦味がよく馴染んでいる。


「向こうで久しぶりにご馳走になったら、はまったなどと抜かして。與土さんに我儘言ってよく作らせてましたね、あいつは」


雪狼はそう言うと、葡萄酒の入ったグラスを持ち上げて一口飲んだ。


「狐の旦那は洒落たものが好きでしたね。食べるもんも、着るもんも」


與土が懐かしむように笑った。


「ああ、僕もよく、向こうの服を見繕ってもらってました」


月鹿が頷いて、炭酸水の入ったグラスに手を伸ばしたその時だった。


「だから、気をつけますってば」


「誰だって、日本の山に虎がいたら驚いて逃げ出すだろうが」


ベージュと黒のバイカラーのスウェットに白いキャップを被った小柄な女と、黒のダウンジャケットを羽織った男が何やら言い合いながらこちらへと向かってくる。


「烏丸隊長」


月鹿の隣で、雪狼が勢いよく振り返る。

椅子から立ち上がって頭を下げた彼に、ダウンジャケットの男が軽く手を上げて応える。

男の隣で、白いキャップの下の、吊り目がちの大きな瞳が見開かれた。


「げっ狼。あと鹿」


「こら。向こうであいつの仲間に世話になっただろう」


ちゃんと礼は言え、と烏丸はキャップを被った頭を軽く小突いた。


「お疲れさまです。烏丸隊長に、巌虎さん」


月鹿はゆっくりと振り返ると、近づいてくる二人に微笑みながら、丁寧に頭を下げた。

與土が屋台の後ろから折り畳み式の卓を取り出す。


「烏丸隊長お疲れさんです。虎のお嬢も、元気そうで」


卓を広げて椅子を用意する與土に烏丸は頷いてみせると、ほら、と巌虎の背中を押す。


「えーっと」


巌虎は雪狼の前まで近づくと、キャップを外してぽりぽりと頭を掻いた。

肩につくかつかないかで切り揃えられた、おかっぱの黒い髪が揺れる。


「……ありがとう、ございました。秩父では、お仲間にお世話になりました……」


ぺこりと頭を下げた巌虎を見下ろしながら、雪狼はまったく、と溜め息をついた。


「話は聞いています。相変わらず、貴女は向こうでも暴れ回っていたようですね」


「暴れ回ってって、あたしは隠仁おにを」


ぱっと頭を上げて、言い返そうとした巌虎に、雪狼は腰をかがめて目線を合わせた。


「助かりました。神域を荒らす者は、私も許せません」


琥珀色の瞳がすぐ近くに迫って、巌虎はたじろいだように後ろに下がった。


「……背が低いからって、子ども扱いするなっ」


そう言うと、ぷいと屋台の方へと走っていってしまう。


「最近の癖でつい、すずさんにするようにしてしまいました」


かがんだまま、雪狼が烏丸を見上げる。


「お前達は仲が良いのか悪いのか、全くもって分からない」


後ろで見守っていた烏丸がぼやいた。


「たいちょーう、今日ワインだって! 赤!」


巌虎が與土から受け取った酒瓶を高らかに持ち上げて、烏丸に見せる。


「高いやつみたい! あとご飯はみねすとろーねとぐらたんだって。ご馳走様です!」


「……しょうがねえな」


烏丸は溜め息をつくと、ダウンのポケットに手を突っ込んだ。


「私は結構です」


「ご馳走様です」


雪狼と月鹿の声が被り、二人は顔を見合わせる。


「ねえ、烏揚羽も呼びましょうよ。蜂須賀はちすがさんも」


巌虎は嬉しそうに酒瓶とグラスを持って、烏丸の元へと駆け寄ってくる。


「もういいから、みんな呼べ」


烏丸は目を瞑って頷いた。


やったあ、と巌虎は声を上げて、烏丸に酒瓶とグラスを押し付けると、御門鑑おもんかんをスウェットのポケットから取り出して握りしめる。


「呼んできまーす」


そう言うやいなや駆け出したかと思うと、あっという間に見えなくなってしまう。


「……お注ぎします」


雪狼が烏丸からそっと酒瓶とグラスを受け取ると、卓に置いて注ぎ始めた。

烏丸が椅子に座ると、與土がミネストローネと焼き上がったガーリックトーストを持ってきてくれた。


「今日の葡萄酒は、いいやつですよ」


懐の具合は大丈夫ですかい、と悪戯っぽく烏丸に笑いかける。

烏丸は諦めたように頷いた。

チーンとオーブンの音が鳴った。


「與土さん、ぐらたんが焼き上がったみたいです」


月鹿が嬉しそうに声を上げた。

はいはい、と與土が小走りで屋台へと戻る。


「隊長の分は私がお持ちします」


雪狼が與土の後に続く。


「わーまた良い匂いがしてる!」


巌虎が烏揚羽と蜂須賀を連れて戻ってきた。


「烏丸さん、お疲れさまです」


「私までありがとうございます」


烏揚羽と蜂須賀が烏丸へ頭を下げる。

烏丸は頷くと、ほら、と屋台へと二人を促す。


おーっ焼き上がってるじゃん!

巌虎、やけどに気をつけて。

僕も一緒に運びます。

じゃあ私はスープよそうね。

隊長の分は私が。


また一気に賑わい出した屋台を眺めて、與土は目を細めた。


「烏の雛たちは、いつまでも食べ盛りの育ち盛り」

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