第64話 予感⑧
「それにしても、久しぶりに降ったな」
私の前を歩く北野が、楽しそうに雪道を踏み締めながら振り返る。
その姿を見て、やっぱり子犬、と思いながら私は空を見上げた。
小雪がちらちらと舞う空は、薄い灰色の分厚い雲に覆われている。
「明日、電車止まっちゃうかもね。東京は雪に弱いから」
確か予報だと、雪はこのまま明日の未明まで降り続くと言っていた。
もしまた降る勢いが強くなるようなら、明日の朝の通学に影響が出るだろう。休校になる可能性もある。
確か、去年の今くらいも関東は記録的な大雪だった。
あの時も電車が止まってしまって大騒ぎだったけれど、果たして今回はどうだろうか。
「雪の上でサッカーできるなんて滅多にないし、雪中サッカーって良いトレーニングになるから。やりたいんだけどな」
まあ、休みなら休みで良いんだけどさ、そう言って北野は勢いよく両腕を振るうと、腰から上半身を大きく捻って右足を蹴り上げてみせた。
雪がぱっと北野の前を舞う。
「……弓道場は恐ろしく冷えるから、これ以上寒くなってほしくないけどね」
運動部とはいえ常に走り続けるサッカー部と違って、弓道は基本的に立ちっぱなしだ。
弓を引くために上半身は動かすけれど、下半身はみじろぎ一つしない。
かろうじて石油ストーブの用意はあるものの、底冷えして冷蔵庫のようになった道場には気休めにしかならなかった。
つめたい床から足元を伝って冷気が身体を這い上がってくるのを思い出すと身震いをしてしまう。
私は巻いていた白いマフラーに顔を埋めた。
「まあそれでも弓は引きたいから。電車が止まらないと良いよね」
明日学校が休みになってしまったら弓も引けないし、それに。
それに?
なんだろう?
私はふと足を止めた。
それに。
そうだ、白角さんにも会えない。
それは。
それは?
「遠坂」
突然北野に呼ばれて、はっとして顔を上げる。
いつの間にかぼうっとしてしまったらしい。
「おばさん、まだ帰ってきてないみたいだな」
気がつけば数メートル先に、私が母と住む二階建ての古い一軒家が見えていた。
まだ玄関の明かりは付いておらず、家はひっそりと静まり返っている。
腕に抱えた肉じゃがの紙袋はまだ温かいのに。
「……今日も、きっとあの人のところだろうな」
「あの人って」
「彼氏。お母さんの」
北野が黙った。
何も言わずに私のことをじっと見ている。
「って、気を使わせるね。ごめんごめん」
私は笑って何でもないように手を振ると、紙袋を抱え直した。
明かりの点いていない、暗い家に帰るのはもう大分慣れていたはずなのに。
この温かさが私を緩ませた。
紙袋の中の優しい匂いをそっと吸い込む。
「なんで謝るの」
「え?」
「それに、こういう時は無理して笑わなくていいし」
北野はそう言うと、また歩き出した。
「もうすぐそこだから、ここでいいよ」
私が後ろから声を掛けると、振り返った北野は無言で鍵を開けるジェスチャーをしてみせた。
そこまで見届ける、ということだろう。
私は観念して北野に隣に並んだ。
いつも軽口ばかり叩く北野が黙っているとなんだかむず痒いような、どうも調子が狂うような気がしてそわそわしてしまう。
家に着いて、財布に入れていた鍵を取り出して玄関の戸を開けるまで、北野は後ろで紙袋を持って待っていてくれた。
「ありがとう」
振り返って袋を受け取る。
「いつでもさ」
ずっと黙っていた北野が口を開いた。
うん? と私が見上げる。
「辛くなったり、しんどくなったりしたら言えよ。俺じゃなくてもいいから、言える奴にさ」
私はちいさく頷いた。
「じいちゃんがいたらな。俺もそこまで心配しなかったけど」
北野は空を見上げた。
私もつられて見上げる。
「おじいちゃんに、会いたいなあ」
そう呟くと、一瞬にして目の奥の方が熱を帯びるのを感じた。
冬のつめたい空気でその熱を冷ますように慌てて顔を左右に振って、まばたきを繰り返す。
「……明日電車が動いたら、遠坂も気をつけて学校行けよ」
北野はそう言うとポケットに手を突っ込んで、くるりと背を向けて駆けていってしまった。
その大きな後ろ姿を追いかけるように、つい先ほどまで軽く舞っていた雪はいつの間にか勢いを増していて、世界をまた白く銀色に染めつつあった。
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