第62話 予感⑥

「雪ちゃん! 元気にしてた?」


お店の戸を開けると、淡いグリーンのエプロン姿の北野のお母さんが笑顔で迎え入れてくれた。


「おばさん、こんばんは」


中を見渡せば、仕事帰りの常連のおじさん達が、大きなビールジョッキを片手に一杯やっている。

雪ちゃん久しぶり、また背が伸びたねー、と口々に声を掛けてくれるおじさん達に、ぺこりと頭を下げる。

お店の中に入ると暖かい空気と煮物の良い香りが、冷えた体を優しく包んだ。


「北野くんから声をかけてもらって、早速来ちゃいました」


「良かった、学校でだんと会えたのね。雪ちゃんはあんまり携帯見ないって言ってたから、心配してたのよ」


寒かったでしょう、とストーブの近くの席を促してくれる。

石油の匂いがして、ふっと心が緩むのを感じる。


「お母さんも変わりない? 相変わらず忙しいのかしら」


おばさんがコップにお水を注いで、おしぼりと一緒にテーブルの上に置いた。

私はありがとうございますと言ってから、頷いた。


「いつでも来ていいんだよ。一人でご飯食べるのは寂しいでしょう」


私はこういう時、どういう顔をしたらよく分からなくなる。

優しい言葉を掛けてもらっているのに、なぜだか笑顔がうまく出てこなくて、自分でも曖昧な顔をしているのが分かった。


嬉しいと、どこかでは思っているのにな。

おばさんは優しいのに、こんな風に強張ってしまう自分はつめたい人間だと思った。


そんな私を見ながらおばさんはにっこり笑うと、今日は雪ちゃんの好きな豚の生姜焼きです、と言って厨房の中に入っていく。


「お父さん、雪ちゃん来たよ。生姜焼き定食ね」


奥から、おう! と北野のお父さんの声がした。


ふぅっとちいさく息をついて、目の前に置かれた水を飲む。

ここに来ると、真っ当な家族ってこういうことなんだろうなって思う。


北野の家は、おじいちゃんの代からお店を営んでいる。

今はおじいちゃんは引退して、おじさんとおばさんが継いで、二人で切り盛りしている。

昼間は大学生のアルバイトを雇ったり、繁忙期は夜も人を雇ったりしていて、なかなか繁盛している町の定食屋さんだ。

部活が休みの時は時々、北野もお店を手伝っている。


ここには、北野のお父さんがいて、お母さんがいて、北野がいる。


私の家にはおじいちゃんもお父さんもいなくて、お母さんはいるけれど、取られてしまった。

家には私だけ。


ここでも、私と北野は大違いだ。


「ただいま!」


お店の戸が勢いよく開かれた。

振り向くと、北野が肩や髪に雪を乗せて立っていた。


「お! いるいる」


そう言って、北野がにっこり笑ってこっちを見ている。


「おかえり、ってあんた、雪は外で払ってきなさい」


おばさんが厨房ののれんから顔を出した。


はいはい、と北野が戸を閉めて、コートを払う様子がすりガラス越しに見えた。

暖ちゃんお帰り、と声を掛けるおじさんたちに笑顔で頭を下げながら、北野が私の目の前に座る。


「さっむいねー」


手と手を擦り合わせながら、生姜焼きって? と聞いてくる。

私が頷くと、北野は嬉しそうに笑った。


「まったく、あんたは水くらい自分で注ぎなさいよね」


おばさんが、北野の頭を軽くはたいて水の入ったコップを前に置いた。


「母さん、俺も遠坂と一緒だよね?」


おばさんは当たり前、と言って厨房に引っ込んだかと思うと、手に生姜焼きとお漬物とサラダ、それにお味噌汁とごはんを載せたお盆を手に持ってやって来た。


「うまそうー!」


「これは雪ちゃんのよ」


手のひらほどある大きな豚の生姜焼きが、白いお皿の上でてりてりと輝いていた。

お肉の上には細く切られた玉ねぎとかいわれ大根が乗せられ、下には柔らかく茹でられたレタスが敷かれている。

トマトとキャベツのサラダに、きゅうりとワカメと人参のお漬物には白胡麻が掛かっていた。

大根と油揚げのお味噌汁と白いごはんからは仄かに湯気が立っていて、思わずお腹がぐうと鳴るのが聞こえた。


目をきらきらさせながら私の前に置かれた定食を見つめる北野は、やっぱり子犬みたいだ。


「あんたの分もすぐ持ってくるから」


マテ! と笑って言い残して厨房に戻るおばさんも、きっと私と似たようなことを思っているに違いない。


「……お先に」


少々申し訳なく思いながらも、こっちも部活帰りだ。

相当にお腹は減っている。

遠慮なくお味噌汁から箸を伸ばした。


「駄目だ、俺自分で取ってくるわ」


そう言うと北野は厨房に向かう。


厨房から、あーっあんた手洗ったの!? とおばさんの大きな声がして、お店のおじさん達と顔を見合わせて思わず笑ってしまう。


洗う洗う! と北野の声と、蛇口を捻って水が出る音がした。


ここは、いつもあったかい。

笑顔と笑い声が、空気の中に溶けているみたいだ。


私はお味噌汁をすすった。

湯気に、視界が滲む。


だから、来たくなかった。

あの家に帰った時、より寂しく思ってしまうから。


一人でいる日常が、よりつめたく、凍えてしまいそうに感じてしまうから。


だから、来たくなかったのに。


お味噌汁を置こうと俯いた時、瞳に盛り上がった雫の粒がお椀の中に吸い込まれていって、あっこれしょっぱくなっちゃうかなって一瞬思ったけれど。

でも、そのおがげで誰にも気づかれなかったと思うから、やっぱりそれで良かったんだと思った。

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