第61話 予感⑤
「白角さんって、何年生なんですか?」
私の前で弓を引く白角さんの放った矢が、当然の如く的を射抜いたのを見届けてから、私は口を開いた。
白角さんが、ゆっくりと振り返る。
昼休みだから、朝と違って私は制服のスカートの下にジャージを重ねばきという、中途半端な恰好だったけれど、白角さんはちゃんと袴を着ていた。
「私よりも、歳上かなとは思ってましたが。まさか、三年生じゃないですよね、もう卒業も間近なのに」
二年生? と尋ねる私に、白角さんはうーん、と首を傾けた。
「もうすぐ卒業っていうことであれば、三年生が合っているのかな」
合っているって? と私が聞くと、白角さんはすこし寂しそうに微笑んだ。
「多分、僕はこの春、卒業することになると思うから」
そう言うと白角さんは前を向いて、次の矢を弓に
正直、はぐらかされたような感覚があったし、随分と含んだ物言いをするものだと思ったけれど。
白角さんにも、触れてほしくない部分があるのだろう。
私はそれ以上尋ねるのはやめて、弓を握る手元に目線を落とした。
白角さんは前に、遠いところからここに来た、と言っていた。
もしかしたら、前の学校で嫌なことがあったのかもしれない。
それか、のっぴきならない家庭の事情とか。
もしそうなら、受験シーズン真っ只中のこんな時期に、学校を移るなんて余程のことがあったんだろう。
私にも、言いたくないことは沢山ある。
白角さんは余計なことは何も言わないし、聞かない。それが心地よかった。
だから私も、白角さんが言いにくそうなことは聞きたくないし、聞くのはやめようと思った。
「雪」
優しく名前を呼ばれて、はっとして顔を上げた。
「あんなに急いで来たのに。引かないなんて、勿体無いですよ」
白角さんがすこしからかうような顔つきで、私を見ている。
「あれっ、もしかして見てました?」
「背の高い男の子に引き止められて、でも、うずうずしている雪が見えました」
うずうずって、恥ずかしいなぁと俯く私に、白角さんが微笑んだ。
「僕は蹴鞠は得意ではないので。あの子らが上手に蹴って、びゅんびゅん走る姿には感嘆してしまいます」
「け、蹴鞠? ああ、サッカーのこと?」
白角さんも冗談言うんですね、と私は笑った。
彼は一瞬きょとんとした顔をして。
それからすぐに、はい、さっかーです、と微笑んだ。
「……北野も、私も、よくやるよね」
独り言ともつかない、呟きが漏れ出た。
ご飯を食べていたら、正味30分もない昼休み。
うちは進学校だから、休み時間を勉強に充てている子は少なくないけれど、冬のこの寒い時期、校庭を駆け回る生徒なんてほとんどいない。
北野たち以外は。
ほぼほぼ屋外と言っていい弓道場で、白い息を吐きながら弓を引く人なんて、もっといない。
私以外は。
弓道場の鍵は、顧問の先生と部長が持つことになっていた。
でも私があまりに頻繁に鍵を借りにいくものだから、特別に個人持てるようにと引退した前の部長が掛け合ってくれたのだ。
私は誰ともつるまないし、ただ黙々と弓を引いてるだけだから、今も顧問から黙認されているみたいだった。
ちいさく溜め息をついて、弓を構える。
白角さんも何も言わずに、また前を向いた。
私は的を見据えて、両腕をゆっくりと上げていく。
的が、目の先にある。
ここなら、自分の向かう先は一目瞭然なのに。
教室だと、家だと、途端に私はどこに進んだら良いのか、分からなくなってしまう。
ぱんっ。
前の的が揺れて、白角さんの矢が刺さっているのが視界に映る。
的がそこにあるだけで。
それだけで、私は嬉しかった。
その気持ちだけで、弓を引いていく。
ぱんっ。
ふと気づいた時には、矢が的に刺さっていた。
「よし」
白角さんが、部活で的に
部活中は、みんなの声が弓道場にこだまするけど、今は彼の静かな声だけだ。
ありがとうございます、と私が言うと、白角さんの横顔に笑みが浮かんだ。
「何も、考えてなかった」
いつもそうだ。
的に中った時は、何も考えていないことがほとんどで、どんな射だったか思い出したいというのに、いつもそれが上手く出来ないでいる。
「ただ、好きというだけでは駄目ですか」
え、と私が顔を上げる。
白角さんの涼しげな横顔は的に向いている。
「雪の射を見ていると、弓を引くことが好きでたまらないんだなと感じます」
「……みんな、そうだと思います」
私よりもずっと上手い人はたくさんいるし、私はもっともっと上手くなりたい。白角さんみたいに。
「好き、という気持ちは不思議ですね。頭も、身体も全部置いてきぼりにしてでも、自分を、心を動かしてしまう。時に、それが苦しくても」
「私は」
白角さんは優しく微笑を浮かべたままの横顔で、私に尋ねた。
「雪は、どうして弓を引くんです。剣術でも、そう、さっかーでもなく」
私は、どうして弓を引くんだろう。
剣道でも、サッカーでもなく。
「的に
そう言うと、白角さんが両腕を持ち上げた。
水が高いところから低いところへと流れるように、そうすることが自然の摂理のひとつであるかのように、白角さんが弓が引く。
ぴたりと、弓と矢が彼の体に沿った。
中る。
きっと、また。だって。
ぱんっ。
的に白角さんの矢が刺さった。
だって、すごく綺麗だった。
まるで、白角さん自身が弓みたいだと思った。
「白角さん」
私が後ろから声を掛けると、彼は弓を下ろして、射位から出た。
そのまま私の方に向き直る。
「どうして弓を引くのか、正直まだ、うまく答えられないけれど」
白角さんは黙って私を見ている。
「繋がる感じがするんです。なんだろう、弓を引くと、普段ばらばらになってる私が、ひとつになる感覚っていうか」
私は首を傾げた。
「私だけしかいないけど、でも、みんないるっていうか。そのみんなって、友達とか、そういう具体的な人じゃないんですけど。……なんか、ひとりじゃないって、思える」
うまく言えなくて、と私が目線を落とすと、白角さんがそっと私の手に触れた。
「分かります。なんとなくだけれど、雪の言いたいこと」
近くで見る白角さんはやっぱり綺麗で、瞳は冬の湖のように冴え冴えとしていた。
私はこんな目をしている男の人に、他に出会ったことがないと思った。
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