第60話 予感④
「遠坂さん。遠坂さんってば」
昼休みになって、急いで教室を出たところを柔らかな声に引き止められた。
聞こえないふりをしようとしたけれど、肩を叩かれたら振り向かない訳にはいかない。
ゆるゆると後ろを振り返れば、明るい栗色の髪をふわふわに巻いた、甘くて良い香りがする砂糖菓子みたいな女の子が立っていた。
「
名前を呼ばれた彼女が首をゆっくりと傾げると、綺麗に巻かれた髪が細い肩からふるりとこぼれ落ちた。
びっくりするくらい小さなお弁当箱の包みが、ぶかぶかのセーターの袖から覗く華奢な手の中に抱かれている。
「今日の朝、一緒に歩いていた人って誰?」
ほんのりピンク色のくちびるに、優しく笑みを浮かべて見つめられると、同性の私でもどきどきしてしまう。
彼女の細い指が、色白の頬に掛かった髪をそっと耳にかけた。
形の良いちいさな爪は綺麗に磨きあげられていて、艶々と光っていた。
思わず、手に持っていたジャージで自分の手を隠す。
「仲良いの? あの男の人と」
慣れているのだろう、つい見惚れてぼんやりとしていた私をさして気にする風でもなく、柾さんはまた砂糖菓子の声で私に尋ねた。
朝。一緒に歩いていた。男の人。
「白角さんのこと?」
私はようやく要領を得て、柾さんを見つめ返した。
しらつの、と柾さんは口の中で繰り返した。
「遠坂さんが、誰かといるって珍しいなって思ったの」
柾さんはにっこり笑った。
彼女が笑うと、纏う空気が一段と柔らかくなる。
花のような人だなと思った。
私と、大違い。
胸の奥の方がじりっと疼いた。
「……最近、男子部に転入してきたみたいだけど。私もよく知らないの」
男子部に、と柾さんが驚いた様子で、色素の薄い茶色の目を見開いた。
教室の中から、柾さんを呼ぶクラスメイトの声がした。
「ごめん、私もう行かなきゃ」
「あっ」
柾さんが私の方へ手を伸ばしたのが視界の端に映ったけれど、気づかないふりをして振り切るように走りだす。
きっと教室で言われてる。
なんで、あんな暗い子と一緒にいたの、って。
柾さんと私は正反対だから。
私は誰とも一緒にお手洗いに行かないし、休み時間はひたすら本を読むか、ヘッドフォンで音楽を聴くかしている。
三時間目の終わりには早弁のおにぎりを頬張って、昼休みのベルが鳴ると同時に教室を飛び出していく、変な子だ。
自分でも分かっている。
廊下を走るな、とすれ違った先生が怒鳴る。
ぺこりと頭を下げつつ一瞬早足にしてから、先生の姿が見えなくなれば、また駆け足で下駄箱へと急ぐ。
早く。早く。
ロッカーからローファーを出すと、きちんと履かずにかかとを踏んで昇降口から外に飛び出た。
早く。
「遠坂!」
なのに。
思わず、深い溜め息が出た。
今日は、弓道場までの道のりが恐ろしく遠く感じる。
「遠坂ってば!」
私はのろのろと振り返る。
女子部と向かい合うように建っている男子部の校舎からは、サッカーボールを手に持った数人の男の子たちがわらわらと出てくるところだった。
その中でもすらりと背の高い一人の男子が、その集団から離れてこっちに向かって近づいてくる。
「北野。なに」
「なにって。つめたくね?」
北野は些か不満そうに口を曲げたが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべる。
「遠坂も、これから?」
そう言って弓を引く真似をしてみせた。
右手と左手が逆だけど、指摘する気も起きなくて、黙って頷く。
「じゃ……」
そのままその場を去ろうとする私を、北野が慌てて引き留める。
「待てって。母さんが今日、部活の帰りにでも店寄ってけって」
「……分かった」
北野によく似た、優しくて人の良い彼のお母さんの顔を思い浮かべる。
小学校からの腐れ縁でもある北野の家は、私の家の近所で定食屋さんを営んでいる。
「ちゃんと、飯食ってるかって」
北野が心配そうに私を見つめる。
昔そういう歌なかったっけ? とぼんやりと頭の端で思いながらも彼のまっすぐな目を見て、北野のお母さんは子育て成功したよなぁと、どこか他人事で頷く。
「おばさん、いつも帰り遅いんだろ」
大丈夫、と私が返すと、でも……と言いかけた北野を制して、彼の後ろを目で促す。
「ほら。みんな、北野のこと待ってるよ」
北野はまだ何か言いたそうに私を見ていたけれど口を噤んで、ボールを弄びながら彼を待っている友人達の元へと背を向けた。
彼女かー? と、囃し立てる仲間を北野は軽く小突きながら、弓道場とは反対方向のグラウンドへと歩き出す。
ひとかたまりとなって、くんずほぐれつ向かう姿は、じゃれ合う子犬の群れのようだった。
北野は太陽みたいだ。
みんなが、明るくてあったかい北野の周りを廻っている。
昔からそう。
私はちいさく溜め息をついてから歩き出す。
北野も柾さんも、いつも、みんなの真ん中にいる。
柾さんは花。
芳しい香りを放って、その美しさでみんなを惹きつけ、虜にしてしまう。
私はなんだろう。
きっと。
真冬のつめたいの風に首を竦め、胸の前でジャージを抱きしめた。
小雪が舞っている。
久しぶりの降雪予報に、みんな昨日から心を弾ませて、はしゃいでいた。
雪、なんておこがましい。
つんと冷えた鼻先に六花が舞い落ちたけれど、それはすぐに姿を消した。
時がくればまるで初めから存在しなかったかのように、跡形もなく消え去っていく姿は自分と重なると思うのだけれど。
やっと弓道場に着いて、スカートのポケットから鍵を取り出して引き戸を開ける。
わたしはきっと名もない星屑で、そして名も知らないような雑草で。
だから、あの人が私の名前を呼ぶのが、どうしても馴染まなくて。
「雪」
聞こえなかったふりが、できなくなる。
「雪は、熱心ですね」
呼び止められた三度目は。
振り返れば、白角さんが私の後ろで静かに微笑んでいた。
彼の周りを舞う雪はちらちらと、まるで春の桜の花びらのように柔らかな温度を放っているように見えた。
そっと手を伸ばせば、透明な花弁はどこにも消えずに、私の手の中にずっと残ってくれるような気さえしてしまうほどに。
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