第59話 予感③


ぱんっ。

早朝の弓道場に、乾いた音が響いた。

昨日の部活で的紙まとがみを張り替えたばかりだから、矢が的にあたると小気味の良い音が鳴る。


的の中心より、右上。

中った場所を見て、つい数十秒前の、自分の射を振り返る。


一本目の早矢に続けて、二本目の乙矢をつがえる。

足袋の中でしっかり足を踏み締め、腹の中、へその下のあたりに、力を込めながら重心を据える。


顔を的に向け、両腕を、弧を描くようにゆっくりと真上に上げていく。

頭上まで両拳が来れば、弓手ゆんでと呼ばれる弓を握る左手を的の方へ押し開いて、肘を伸ばす。


弓手に対し、かけという皮の手袋をはめて、弦を引く右手は馬手めてと呼ぶ。

馬手は、左と同じ高さを保ちつつ右に引き、額の斜め上辺りで留め置く。


そこからゆっくりと、弓を左右に引き分ける。

矢と肩とを並行にしながら降ろすと、弓の中に身体がすっぽりと入り、矢は自分にぴたりと重なっていく。


そのまま矢をくちびるの位置まで引けば、離れと呼ばれる矢が放たれる瞬間まで、無限とも思える数秒間に身を浸す。

まるで木々が地に深く根を張り、空へ目いっぱい枝葉を伸ばすように。自分の筋肉が、骨が、弓を上下左右へと伸ばして。

枝につけた固い蕾から、時が満ちて柔らかく花弁が開かれるように。

矢が放たれる。


ぱんっ。

はっと我に返る。

音と共に現実に、意識下に自分が戻ってくる。


右下。

ぎりぎりのところで的には中った。

今日はどうやら、右方向に飛びがちらしい。

上半身を屈めて、下に置いてあった二本の矢を取り上げた、その時だった。


「今日も、早いですね」


後ろから声がして、私は振り返った。

すぐ後ろに弓道着姿の若い男が、弓と矢を持って立っている。

道場に差し込む陽の光が、黒曜石のような黒髪に宿って輝いていた。


「おはよう、ございます……」


私が挨拶をすれば彼はにこりと微笑んで、ちいさく頭を下げた。

後ろに流した長めの前髪がふわりと揺れる。

むき出しになった形の良いおでこに、涼しげな目元とすっきりとした鼻梁。

そして柔らかく結ばれた赤いくちびるが、ちいさな顔の中にバランスよく収まっている。

手に握られた弓は私が引いているようなカーボン製のものではなく、古い竹の弓だ。


「ご一緒させてくださいね」


端正な顔に笑みを浮かべたまま、私の返事を待つこともなく、男はさっさと射位しゃい── 射手が的に向かって矢を射る際に立つ位置── に入ると、流れるような所作で弓を構える。


彼は手足がすらりと長く、弓を引く姿はとても美しくて。

初めて彼の射を見た時は、すこし嫉妬してしまった。


今日も来ると思っていた。

だから、的はふたつ、用意していた。


私は三本目の矢をつがえる。

後ろで、彼が弓を引いていく気配がする。


朝の授業が始まるまでの時間に二人で弓を引くようになってから、もうすぐ一週間が経とうとしていた。


僕は正直言うと、弓よりも剣術の方が得意なんですが。


謙遜でも嫌みでもなく、事実そうであるからこその言葉だったと、彼を知った今では分かるけれど。

彼の秀麗な射形しゃけいを前にして、正射必中せいしゃひっちゅうとはこのことだと思った。


心正しく行ったものには、必ず結果がついてくる。


ぱんっ。


私はゆっくりと顔を的へ向けた。

視界に映り込んだ、二つめの的の中心には、彼の矢が真っ直ぐに刺さっていた。


そうだ。


私は再び両腕を打ち起こしていく。

正しく結果が出るものには、それが為される前から、決まっているものがある。

弓手を左へと押し開き、馬手を右へと引く。

そこから身体を弓の中へと入れていくようにゆっくりと引いていく。


弓越しに、的が見えた。


『射は仁の道なり。射は正しきを己に求む。己正しくしてしこうして後発のちはっす』


部活の前に皆で唱和する、礼記射義らいきしゃぎの一節が頭をよぎる。


矢を放つ。


ずっ。

的がちいさく震えて動いた。

私の三本目の矢は、僅かに的の右下の掠って、中らなかった。


「発して中らざるときは、すなわち己に勝つ者を怨みず」


いつの間にか、続きを口の中で呟いていた。


「返ってこれを己に求むるのみ」


最後の一節を、後ろで彼の朗らかな声が引き取る。

私が振り返ると、穏やかに微笑する彼の姿があった。


「雪は、自分に厳しいですね」


学校では誰も呼ばない私の下の名前を、彼はいとも容易く呼ぶ。


白角しらつのさんに、言われたくありません」


私がそう言うと、彼は微笑んだまま的に顔を向けた。

冬の湖のように静かな彼の瞳の中には、一体何が映し出されているのだろう。


しばらくして朝の弓道場にぱんっと、乾いた音がひとつ響いた。

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