第58話 予感②
◆
まだ日没まで大分間があるというのに、辺りはぼんやりと薄暗い。
空には黒く、厚くて重たげな雲が山の稜線から迫ってきていた。
ひとりの女が、鬱蒼とした森の中を駆けていた。
腰まで伸びた豊かな黒髪は、肩下で緩く束ねられていたが、走るうちに乱れてしまったのだろう、ほつれた髪の毛が汗ばんだ額や頬に張り付いている。
着ていた着物には泥が跳ね、草木の枝葉に引っ掛けでもしたのか、布地は所々ひきつれ裂けていた。
女はぜいぜいと白い顔で荒い息を繰り返し、足を止めた。
美しい
肩で息をする女の腕には、柔らかな布にくるまれた包みが大事そうに抱かれていた。
それは、産まれて間もない赤子の姿であった。
赤子は目を閉じ、時折ふにゃふにゃと声にならない声を上げて、ちいさく口を動かしている。
女はその姿を見ると、ふっと顔を綻ばせた。
ふるんと柔らかな頬に、優しく指をあてる。
「……奥方」
弾かれたように女が振り返った。
「お戻りください」
女の振り返った先には、身の丈よりも高い槍を手に持ち、ヒグマの毛皮を頭から被った大柄な男が立っていた。
その後ろには同じく大槍を携え、アオシカの毛皮を身につけた、細身の男が佇んでいる。
「お身体に障りますぞ。お戻りを」
大柄な男の背中越しに、細身の男が口を開いた。
丁寧な口調だったが、有無を言わせぬものがあった。
口には薄い笑みを浮かべていたが、切長の目は鋭く、突き刺すような視線を女に向けている。
「……嫌じゃ」
女が後ずさる。
細身の男が女に近づこうとするのを、大柄な男が手で制した。
「ウツギ殿」
「なんじゃ。おぬしがやるか、アサマ」
ウツギと呼ばれた細身の男が、口を歪めて大柄な男を見上げた。
アサマは答えず、女に顔を向けた。
「奥方。親父殿が、心配なさっています。もうすぐ、嵐も来る。儂らと共に帰りましょう」
遠くでゴロゴロと雷の鳴る音がした。
じきに雨が降り出すのだろう。
今でしたらまだ……とどこか縋るようなアサマの眼差しを断ち切るように、女は男たちを睨みつけた。
「われは戻らぬ。この子も、戻らぬ」
暗い森の中に、凛とした女の声が響いた。
赤子を抱いた女の腕に力が籠る。
「シマ……」
アサマの太い眉が苦しそうに寄せられ、その丸くて大きな瞳が揺れた。
女は一瞬はっとしたような顔で、アサマを見上げた。
「誠に残念ながら。母上には話が通じぬようですな」
ウツギが大げさに溜め息をついてみせた。
大義そうな様子で槍を構える。
女とアサマに緊張が走る。
「待たれよ、ウツギ殿。シマは」
「否。もう十分待った」
ウツギは中途、アサマから奪うようにして言葉を被せた。
「女が拒めば、叩き斬ってでも連れ戻せとの命を忘れたか」
氷のような温度のない目がアサマを射抜き、そして赤子を抱くシマへと移る。
シマは姿勢を低くし、そっと片手を赤子から離した。そのまま腰に差していた大ぶりの山刀に手を伸ばし、一思いに抜いて顔の前で構える。
その刃は鋭く研がれ、切先は刀のように剃っていた。
「無駄な足掻きを。その心意気だけは買ってやりましょうぞ」
ウツギが冷笑を浮かべて槍を振り上げたのと、シマが身を捻るようにして山刀を投げつけたのは同時だった。
シマの山刀はひゅんっと勢いよく弧を描いて、ウツギの大槍の柄にぶすりと突き刺さる。
「何」
刀が刺さって重心を崩したウツギの槍の穂先が、シマの鼻先を掠める。
シマは後ろに飛び退くと、そのままくるりと背を向けて、また森の奥へと駆け出した。
「アサマ、逃すな」
ウツギが苛立たしげに叫ぶ。
遠心力が掛かって深々と刺さった山刀は、ウツギが渾身の力を込めて引き抜こうとしても中々抜けなかった。
アサマはうなずいてシマの後を追う。
シマは早い。
森の中をまるで風が通り抜けるように、赤子を抱えながらもするすると駆けていく。
だが、昔から仲間内でアサマの駿足には敵う者はいなかった。
アサマは追いつくと、シマの肩に手を伸ばす。
肩を掴まれたシマは振り向き様、衣の懐から小ぶりの刀を取り出すと、アサマの頬を切りつけた。
「シマ」
アサマの左頬から、血が流れた。
振り返ったシマの目は爛々と輝き、形の良い口からはちいさな牙が覗いていて、微かな唸り声が漏れていた。
「すまぬ。おぬしを、守ってやれなかった」
アサマは頬から血を流したまま、呟くように詫びた。
「……われはもう覚悟はできておる」
シマはそう言うと、アサマから距離を取りつつ懐刀を胸元へと戻し入れた。
静かに息を整えながら、腕の中に眠る我が子に目を落とす。
「だが、この子はあそこに戻れば修羅の道を歩むことになる。それだけは助けてやりたいのじゃ」
シマは愛おしげに赤子を見つめる。
腕の中で気持ちよさそうに眠っている我が子のおでこを撫でれば、ぽやぽやとした産毛の生際には左右に一つずつ、ちいさなこぶのようなものがあった。
それはまだ柔らかく、まろやかに隆起している。
シマは祈るように目を閉じて、赤子を優しく抱きしめた。
「シマ。よく聞け」
すぐ側で太く、静かな声が響き、シマは目を開けた。
アサマがシマの目の前に立っていた。
強い光を湛えた大きな瞳の中に、シマと赤子が映っている。
「儂に案がある。任せてはもらえぬか」
アサマは心を決めたように、口を開いた。
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