第57話 予感①

なぜ、桃太郎は鬼ヶ島に辿り着けたと思う?


あの方は、唐突にそう俺にお聞きになった。

日差しの強い、夏の日だった。

遠くで蝉時雨が聞こえて、どこからか西瓜の甘い香りが漂っていた。


なぜ、と仰いますと?


俺は質問の意図がよく掴めず、聞き返した。

蝉の声が大きくなったような気がした。


なぜ、桃太郎は鬼ヶ島の場所を知っていたんだろうな。


あの方はもう俺に尋ねることはなく、独り言を言うようにぼんやりと外に顔を向けた。


外には打ち水がたっぷりとしてあって、切々と涼を呼び込んでくれていたものの、暑がりの俺には到底足りず、額を伝う汗をまた手の甲で拭った。


あの方はうって変わって涼しい顔で、しばらく外を眺めていたが、ふと、視線を戻した。


忘れよ。


感情の見えない顔で短くそう言うと、何事もなかったようにそれまで向かっていた文机に向き直る。

一つに束ねた髪が、さらりと揺れた。


まるでひとり清流の中に身を置いているかのような涼やかな顔をされているが、暑いものは暑いだろう。


今日はずっと関所に缶詰で、溜まりに溜まった書類仕事を片付けるのだと仰っていた。

こんな暑い日に中に閉じ込められ、机の前に縛りつけられようものなら、俺だったらたちどころに発狂してしまう。

仕事とはいえ、つい同情してしまう気持ちが勝つ。


この香りの出所を突き止めて、ひんやりと冷たい西瓜をお届けしよう。


俺は一礼をして、部屋を出る。

そっと障子の戸を閉めようとしたその時だった。


あの方はまた顔を上げて、外を見ていた。


その横顔はひどく冷めていて、この夏を一瞬で凍てつかしてしまうような、冷ややかな鋭どさとしんとした諦めと、そしてひりつくような哀しみを混ぜた、危うい美しさを纏っていた。


俺は何も言葉を掛けることかできずに、そっと最後まで戸を閉めた。


そして俺はその時何も言えずに部屋を出てしまったことを、今でもずっと後悔している。

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