第55話 薫陶⑳
「今日はつきあってくれてありがとね」
あたしは隣を歩く、黒のチェスターコートを着た男を見上げた。
「花とか、よく分かんないから、助かった」
「
男が微笑む。
彼の長い影と、あたしの短い影が、それぞれの足元から伸びている。
空には雲がたなびいていて、まだ明るさを残す深い青と、沈んでいく太陽の残光で焼かれて滲み出た紫が、柔らかく入り混じっていた。
「
「え?」
「君がハムレットに、贈った色だよ」
男がそっとあたしの瞳を覗き込んだ。
見上げた薄明の空は、まさに夢幻の美しさを湛えていた。
「あの舞台。あんたには、悲しすぎた?」
ふと彼の涙を思い出して、空を見たままあたしは聞いてみた。
「そんなことないよ」
男はちいさく笑った。
「出て来る人みんな人間臭くて、ずるくて、でも一生懸命で。あたしは面白かったけど。あんたには刺激が強かったかなって思ってさ、
「僕、そんなうぶじゃないよ」
香黒はくすっと微笑んだ。
そう? と、あたしは胸を撫でおろした。
彼は四の中では珍しく線が細いように思えて、何かと気になってしまう。
「シェイクスピアって人。本当のことを書いているんだなって、そう思いながら見ていたんだ。気がついたら、いつの間にか涙を流していた」
「本当のこと?」
彼はその柔らかな声で、
『レアティーズにひどいことをしたのはハムレットか。決してハムレットではない。ハムレットが自分を失い、我を忘れてレアティーズにひどいことをしたのなら、それはハムレットの仕業ではない。ハムレットは否定する』
あたしはびっくりして、香黒の顔をまじまじと見つめた。
彼は微笑みを浮かべたまま、言葉を紡ぎ続ける。
『では誰の仕業か。ハムレットの狂気だ。もしそうならば、ハムレットは被害者の側におり、その狂気こそ、哀れなハムレットの敵なのだ』
澱みなく語る香黒と、タカシナのハムレットが重なっていく。
『どうか、こうしてみなの前で、悪意はなかったという私の弁明を君の寛容さで受け入れて、私を解放してくれたまえ。わたしは屋根越しに矢を放って、兄弟を傷つけてしまったのだから』
語り終えた彼は、ふっと息をついた。
「あんた……。あの一回で覚えたの」
香黒は穏やかに微笑んだ。
「僕、そういうの得意みたいだ」
「みたいだって……。そんなさらっと、そんな凄いことを」
香黒はそうかな、と首をちいさく傾げた。
「美墨みたいに、あんな風に
あたしは被っていたキャップを外して、頭を掻いた。
「いつから、弐にいっちゃうの」
転校していく友達を寂しがる子どものような、澄んだ悲しみを滲ませた顔で、香黒があたしを見る。
あたしは頭をふるりと振って、キャップを被り直した。
「明日からよ」
明日、と彼は繰り返した。
「寂しいな」
素直にそう言うと、香黒は口を結んだ。
宥めすかして胸の奥に仕舞い込んでいたはずの切なさが、きゅっと
「やめてよ、隊長によく似た顔で、そんなこと言うの」
彼は一瞬目を丸く見開いたかと思うと、結んでいた口を緩めて、大きくあははと笑った。
「烏丸さんと僕、そんなに似てるかなあ」
似てるわ、とあたしは右の眉を上げた。
隊長と香黒は背格好や雰囲気こそ違うけれど、顔の造りはよく似ている。
綺麗な二重の目も、すっと通った鼻筋も。開かれると思ったより大きいその口も。
造りが似ていても顔に浮かぶ表情が全く違うから、普段はあまり感じないのだけど。
隊長は基本は仏頂面だが、香黒はいつも静かに微笑みを浮かべている弥勒菩薩のようで、同じ
だから笑みが去った時の彼は、隊長によく似ている。
「これからも、いつでも一緒に。また
あたしは努めてあっけらかんと言い放つ。
香黒はそうだね、とうなずいた。
「あたしに付いてこれるの、四ではあんたと隊長くらいしかいないんだから」
また、つきあいなさいよね、とあたしが偉そうに言うと。
ボトルを入れて待っているよ、と応えた香黒の顔には、いつもの柔らかな微笑みが舞い戻っていた。
※本稿の『』内における『ハムレット』引用文献は以下の通りです。
シェイクスピア 河合祥一郎=訳 『新訳 ハムレット』株式会社角川書店、平成24年、二○九頁、二一○頁
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