第50話 薫陶⑮
「秩父には、タカシナが学生時代、毎年合宿で利用していた民宿があるんです」
巌虎は
「ここの狼達が言ってました。
たまに五月蝿く思うもあるけど。人が楽しそうに、何かに打ち込んでいる姿は、いいものだって」
そうだな、と烏丸は目を細めた。
「……タカシナは、あの子は。器用に色々やっているように見えて、案外不器用です」
巌虎は頭をふるりと振って、キャップを被り直した。
「自分より周りが求めることを優先させて。知らず知らずに、周りが望むものに、きれいに当てはめていってしまう。
そうしているうちにどんどん鈍感になって、どんどん苦しくなっていく」
烏丸は飴を手に持ったまま、巌虎の隣で黙って聞いている。
「感性が鋭いからこそ。演じることが好きだからこそ。周りから求められた役を、無意識に演じ切ってしまえる」
ふと、巌虎は頼りなく揺れる瞳で、隣に座る烏丸を見下ろした。
「隊長。あたし、間違えたかも」
烏丸は、巌虎を見上げた。
「あの子には。もっと他の道があったのかもしれない。演じることは、彼をまた苦しめるかもしれない。自分自身すら欺くものとして、使ってしまうかも」
巌虎はぐっとキャップのつばを下げて、深く被って下を向く。
「あたしはなんて言ってあげたら、良かったんだろう。いつも、言葉がうまく追いつかなくて」
烏丸は、そっと口を開いた。
「いつだって、求めるものは自分の中にあると。
自分に求め、問いかけ続けたものが、生き様として現れ、滲み出るのだと」
巌虎ははっとした表情で、顔を上げる。
「あの若者と、あの絵師に。自分の目と身体の全てを使って、全身で伝えていたお前をずっと見ていた」
烏丸はふと目を閉じた。
「俺たちに出来ることは、そう多くないな。
一瞬で人を変えることもできなければ、何か問題を解決してやることもできない」
巌虎はじっと、身じろぎひとつせずにいた。
烏丸はそっと目を開ける。
「俺たちに出来るのは、ひたすらに人の生きる力を信じて、時に人以上に人を愛して。文字通り、人知れず寄り添い続けていくだけだ」
巌虎は、静かにうなずいた。
烏丸は空を眺めた。
いつしか太陽は昇り、眩いばかりの光を放っていた。
白い海原は、その下でゆるゆると波打っている。
「必要な時は、必ず
その声が人へと届くように、伝わるように、俺たちが繋ぎ手となる」
巌虎の、その紫がかった暗い青の瞳にはうっすらと透明な膜が張られていた。
「人に魔が差し、
絶え間なく爆ぜる音は耳を塞ぎ、燃え盛って揺らぐ火は視界を歪ませ、次第に心は凍てついていく。
怒りと欲望と苦しみの果てに、二本の角は何か救いを求めるかのように上へと手を伸ばすが。
そうなればもう、天の声も、彼の岸にいる者の声も聞こえない」
烏丸は、じっと目の前の太陽を見つめた。
本来であれば眩しくて見ていられないはずの陽の光を、烏丸は逸らすことなくその目に焼き付けるかのように捉えて、離さなかった。
「……だから、隠仁を退治する者も、その声を届ける者も、等しく必要だな」
烏丸は太陽からそっと目を外すと、隣に立つ巌虎を見上げた。
巌虎がうなずき、まばたきをすれば、目の端から柔らかな雫が一筋ずつ、左右の頬を流れ落ちた。
「俺は二百年前、
烏丸は口許を緩めた。
「俺はお前が大事だから、出来ることなら四で守り、育てて、神仏の下へと送ってやりたかった。でも」
そう言って烏丸は、一度言葉を切って。
そしてまた、そっと言葉を紡いだ。
「俺はお前が大事だから、お前の望むことを望みたい。
お前は、魔滅にも才がある。
そして今、その道は開かれている。
お前の命が望み、喜ぶことを選べ」
「あたしは」
巌虎はこぼれ落ちる雫を拭いもせずに、真っ直ぐに烏丸を見つめた。
「あたしは、摩滅を」
透き通った涙に滲むその瞳はきらきらと、深い紫にも濃い青にも輝いた。
それはまるで彼女の中から光が満ちて、溢れ出たかのように
「あたしは、弐ノ隊に行きます」
烏丸はうなずいて、そのちいさく震える背中に、そっと手を置いた。
「次は、甘くない方をくれ」
烏丸はそう言ってまた飴を口に咥えると、巌虎は頬を伝う涙を手で強引に拭って。
そしてキャップの下でにやっと嗤って、うなずいた。
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