第49話 薫陶⑭
今日の奥秩父の山々には、穏やかに波打つ雲海が立ち込めていた。
日の出前の空は柔らかな水色に染まっていたが、地平線に滲み出た橙色はゆっくりと輝きを増しつつあって、太陽の訪れを予感させていた。
朝の空気にまだ冬のつめたさが残る中、拝殿の手摺に腰かけた、小柄な後ろ姿がちいさく揺れている。
細い脚をぶらぶらと切り立つ崖の方に投げ出して、棒付きの飴を舐めたり齧ったりしているその姿は、女性というよりも無邪気な少女のようだった。
「お疲れ様、巌虎」
ふっと、その後ろに黒い影がよぎる。
「烏丸隊長」
そこには、厚手の黒のダウンジャケットに黒無地のデニムを合わせた、一人の男が立っていた。
ダウンの下にはさらに同色のブルゾンを重ねたその姿は、いささか着膨れしているようにも見える。
「そんなところに座って。雪狼に見られたら、大目玉をくらうぞ」
そう言いながらすっと隣に座った烏丸を見て、ベージュのキャップの下の大きな口が、にやっと三日月型に嗤う。
「あ、隊長も舐めます?」
巌虎は小柄な背中を丸めて、羽織っていたブルゾンのポケットに右手を突っ込んだ。
よいしょ、と、左手に持っているのと同じ、棒付きの飴を一本取り出して、烏丸に渡す。
烏丸はその包み紙を剥ぐと、ぱくっと口に咥えた。
カラ、コロと、しばらく舌の上で転がしていたが、そう時を置かずして右の眉は上がり、口はへの字に曲がっていく。
「……甘い」
烏丸の口の端から、白い棒が煙草のように突き出ているのを見て、巌虎は可笑しそうに口の端を吊り上げた。
「隊長のは、ぷりんって奴でしたね」
「……お前は」
「えっとねー、あたしはこーらです」
まだそっちの方が良かったな……、と、烏丸は中に着込んだブルゾンのジッパーを上げながらぼやく。
「それにしても、お前はそんな恰好で寒くないのか」
「あのね、隊長が異様に寒がりなんです。もう暦の上ではとうに春なんですからね」
そうかあ? と、烏丸はポケットから手袋を出してはめながら、巌虎を見やる。
彼女が羽織るカーキ色のブルゾンは薄手で、柔らかな生地が春らしさを醸し出していた。
その下は黒のタートルネックのニットだが、ボトムスは濃い青のショートデニムに黒いタイツと、だいぶ軽装だ。
かろうじて足元は暖かそうなマウンテンブーツだったが、烏丸と比べると、全体としてかなりの薄着に見える。
見てるだけでも寒いと言わんばかりに、烏丸は肩をすくめた。
そんなに寒いなら、と、巌虎はぴょんと勢いをつけて手摺の上に立った。
「あめんぼ、あかいな、あいうえお!」
大きな口を開け、目の前に広がる山々に向かって巌虎が叫ぶ。
「……暦の上ではもう春らしいからな。芽吹と一緒にこうやって、変な奴も出てくるんだろう」
ちがーう! と叫んで、巌虎は烏丸の腕を引っ張り上げると、自分の横に立たせた。
「あたしの後に続いて、叫んでくださいね」
えー……と渋る烏丸を、良いから、と押し切って、巌虎はまた口を大きく開いた。
「うきもに、こえびも、およいでる!」
「……うきもに、こえびも、およいでる……」
「かきのき、くりのき、かきくけこ!」
「……かきのき、くりのき、かきくけこ……」
巌虎がじろりと烏丸を睨む。
分かった……と、烏丸は観念したようにうなずいた。巌虎は大きく息を吸い込んだ。
「きつつき、こつこつ、かれけやき!」
「きつつき、こつこつ、かれけやき!!」
「ささげに、すをかけ、さしすせそ!」
「そのうお、あさせで、さしました!!」
なんだ、知ってるじゃないですか、と巌虎は感心した顔で隣を見上げた。
北原白秋、とぼそりと烏丸は呟く。
ふうん? と、巌虎は首を傾げながらも、得意げに烏丸を見る。
「まぁ……どうです。暖かくなったでしょう」
これだから体育会系は……、と、烏丸はぶつぶつ言いながら、手袋に包まれた手を寒そうに擦り合わせた。
「演劇は、体力勝負なんですって」
うん? と烏丸はまた腰をかけながら、巌虎を見上げた。
巌虎は手摺に立ったままポケットに手を突っ込んで、ゆらゆらと右足を上げたかと思えば、次の瞬間には左足を上げて、器用にバランスを取っている。
よっ、ほっ、と、軽く掛け声を掛けながら、まるで綱渡りをする曲芸者のようにぴょんぴょんと跳ねる巌虎を、烏丸は呆れたように見ている。
「演じる上で、呼吸が乱れないのが大事だから。
発声練習はもちろん、肺と腹筋を強くするために、登山はいい運動になるんだとか」
「あの、若者か」
巌虎はこくんとうなずいた。
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