第48話 薫陶⑬
「高品さん、最近、元気ですよねえ」
隣のデスクの営業事務の女の子が、パソコンのキーボードを打ちながらちらりと俺を見た。
「えっ、そうですか?」
俺もパソコンを打つ手を止めずに、ちらっと目線だけ返す。
「なんか、すっきりしたっていうかあ。前よりも目がキラキラしてる感じですー」
「キラキラって」
思わず苦笑した俺に、好きな人でもできましたあ? と、後半はやや声を抑えめにしながらも、彼女は楽しそうに椅子をちいさく回転させて覗き込んできた。
「いやいや。できてないですよ」
そう言って若干身を引いて笑みを返すも、この子はやっぱり侮れないなと内心舌を巻く。
好きな人、か。
ある意味言い得て妙だと、彼女の洞察力に感心しながら、キーボードを叩く。
俺は学生時代にやっていた、演劇の舞台に戻った。
とはいっても仕事はこれまで通り続けているし、学生時代の仲間が集う劇団に出戻っただけなのだが。
やっと戻ってきたか、と仲間たちは笑って受け入れてくれた。
自分以外には、お見通しだったかと思うと気恥ずかしかったけれど、皆んなの優しさが素直に嬉しかった。
ずっと、演じるのが好きだった。
舞台の上では、いつも自由でいられたから。
いつしか、就職活動を始めていく中で自分で消してしまった道。
貫く覚悟も才能もなかったのに、変なプライドのようなものは一丁前で。
けれども趣味という名で括るには、それは自分にとって大きく、大事すぎた。
そんな自分を持て余して、苦しくて。
ただ、見て見ぬふりをして、そこに蓋をした。
もちろん仲間の中には、現実を見据えつつ就職活動しながら演劇を続けていく奴もいたし、途中で大学を退学してでも、その道に進んでいった奴もいる。
俺は、そんな仲間たちを中途半端だと、この道で食っていくなどいつまで夢を見てるんだと、批判して、距離を置いて、そして、心から羨んだ。
俺は負けた。
勝てなかった。
誰に?
何に?
今度こそ、勝たないと。
もう、負けたくなかった。
誰に勝つんだ?
何に、負けたくないのだろう?
目の前の仕事に打ち込むことで目を逸らしても、俺は正しい選択をしたのだと何度言い聞かせても、それはそこで待っていた。
無くなりも、消え去りもせずに、ただ、ずっと俺を待っていた。
俺は、誰にも負けていなかった。
俺は、何にも勝つ必要なんて、なかった。
俺は。
俺は、ただ、演じていたかっただけなんだ。
演じるのは日常じゃない、あの、舞台の上で。
あそこで演じる自分のことが、ただ、純粋に好きだったから。
なんで、たった、それだけの思いを、自分でなかったことにしてしまったのだろう。
今こうしていても、すぐに思い出せる。
あの、頬を焼くような照明の熱さも。
空気に舞う塵や埃さえ、燦然と輝く。
仄暗い座席には、観客の顔が祭の屋台のお面のように連なって、ほんのりと浮かび上がっている。
その眼差しを一身に受けて。
身体中を一気に熱が走って、そして、一瞬にして頭の奥から冴えわたっていく。
自分ではない何者かが憑依して、自分の口を、四肢を借りて動き出すあの感覚。
ぞくぞくする。
それを、ほんのすこしだけ。
どこか醒めた自分が、演じる自分をじっと見ている。
舞台の天井から、時には客席から。
そして自分の身体のどこからか。
舞台に立つ前は、文字通り吐くほどの緊張に襲われるのに。
どうして演じることを選んだのかと、自分を呪いさえするのに。
それでも。
一度、あそこに立ってしまうと、何もかも吹き飛んでしまう。
まるで麻薬だ。
思うように出来ないもどかしさと、真っ向から取っ組み合って、押し寄せ続ける諦念と、愚直に対峙して。
ひたすらに演じきったその先に。
身体が、心が震えるような。
狂おしいほどの甘美に満ちた、出会いがある。
全てが、持っていかれて。
生きていると。
ただ、息を吸って、吐いて。
今まさに、俺は生きているのだと。
生きている喜びを感じている、自分の命と、出会う。
「……さん、高品さん」
声を掛けられて、はっと我に返る。
「恋わずらい、ですかあ」
手が止まってますよーと、隣で、事務の女の子が笑っている。
「……そうかもしれません」
えっ、とちいさく声を上げる女の子に笑って、煙草行ってきます、とジャケットを持って席を立つ。
きっと、彼女が言うように、これは恋わずらいみたいなものなんだろう。
愛しく思うものに出会えた喜びに満たされて、その熱に浮かされて。
陳腐な言い方だけれども、この世界が光り輝いて見えるのは、自分の中から光が溢れるからだ。
だから目が輝くんだろう。
でも、これはすぐ身体に馴染む。
そっと息を吸い込む。
俺は知っているから。
この感覚を、ずっと前から知っている。
やっと、また出会えた。
俺の中にある、夢。
誰にも、何にも、阻まれることのない。
それは自分への可能性と、期待と、そして、支えで。
生きる理由を、俺に問いかけ、与え続けてくれる。
また君と出会えて、本当に嬉しい。
また俺のところに君が来てくれて、本当に嬉しい。
そう。また、ここからだ。
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