第47話 薫陶⑫

「私はもともと武家の出でした。

ゆくゆくは父や兄と同じように武士になるのだろうと、幼心に思っておったのですが」


おっさんは、そっと目を瞑った。


「ですが、父が戦で夭逝ようせいし。

戦乱の世になると、私は寺に預けられました。

喝食かつじきと言って、簡単に言えば僧の食事の世話係でした。

辛いことも悲しいことも、正直もう思い出したくもないことも、沢山ありました」


おっさんは、ゆっくり目を開けてあたしを見たけれど。

その目はあたしを通り越して、違う何かを見ているようだった。


「寺にいる間、私は絵を学びました。

それは、素晴らしい世界だった。私はその中では自由にいられた。

本当は刀や弓を握りたかったが、それを筆にかえて、私はひたすら描き続けました」


おっさんは自分の手のひらを見た。

ゆっくりと、開いたり閉じたりを繰り返す。

それはあの時見た、龍の掌のようだった。


「そうこうしているうちに、家を継いでいた兄が戦死しました。

私は還俗げんぞくし、家を再興しようとしたのですが。

気持ちとは裏腹に、周りから求められたのは武門ではなく、絵にありました。……悔しかった」


おっさんは笑みを消すことはなかったけど、湯呑みを握る手はちいさく震えていた。


「本当にやりたいこととは、一体何なのでしょうな」


そう言っておっさんは、あたしを静かに見つめた。

あたしは、答えることができなかった。


おっさんはすうっと息を吸い込んで、そしてふっと吐くと、あたしに向かって笑みを浮かべた。


「もちろん、答えは人によって様々だと思いますが。

私にとっては、自分の命を何に使いたいのか、ということに繋がるのかもしれません」


あたしはうなずいた。


「置かれた環境や、取り巻く状況、時にはお金に左右されることもあるでしょう。

自分一人ではどうにもならないことに巻き込まれて、流されることしかできないことも、あるかもしれません」


おっさんはしばらく口をつぐんで、そしてふふっと小さく笑った。


「あの若者には、びっくりさせてしまいましたね。

自分と同じものを持って生きている人間のことは、やはり気になるもので。普段は口出しせずに、皆と見守っているのですが」


こんなに良き時代に生まれ。命を取られることも、家を奪われることも限りなく低いであろうにと、おっさんは目を細めた。


「まあ……。本人も、これでいいのかなって思うところがあったから、山に行ったんだと思うけど」


あたしは、タカシナの後ろ姿を思い出した。

山の中では場違いな革靴、動きづらそうな背広に上着。

手に持つ鞄はずしりと重たそうだった。


ぎゅっと食いしばった横顔には、ひりつくような、彼の叫びが張り付いていた。


あの日、彼があそこにいたのは。


「私はもうすぐ、また上へと向かいます」


おっさんの声で、我に返った。

おっさんは静かに私を見ていた。


右府うふ様に我儘を言って、最後に望みを叶えていただきました。

彼の行く末はまた皆と、見守っていきます」


「おっさん、もうすぐ行っちゃうんだ」


寂しいな、とあたしは呟く。


「最後に、美墨みすみ殿の墨をお借りして、また龍が描けて嬉しかった。

筆から刀へ、そしてまた筆へと戻り、葛藤と迷いの多い人生でしたが。

私はやはり、最後まで絵師だった」


「……おっさんが、筆をふるって描く姿は、気迫に満ちてて。

まるで、武士が刀を振るっているみたいだった。

だから、つまり……そういうことでしょ」


もっとあたしが、言葉を知っていたら。

表現することに長けていたら。

もっとおっさんに、伝えられたのかもしれないと思うと、悔しかった。


うまく言えなくて、ごめんね、とあたしはくちびるを噛んだ。


おっさんは優しく首を横に振った。


「美墨殿。ありがとう。本当に、ありがとう」


そう言って微笑むおっさんは穏やかで、でも力強くて。

おっさんが越えて、そして超えてきたものが、その笑顔の中に滲み出ている気がした。


あたしはおっさんに向かってうなずいた。


そしてあたしもいつか、おっさんみたいな顔ができる人になりたいと思った。


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