第46話 薫陶⑪

巌虎いわとら殿」


関所にある大番所おおばんしょの待合に通されてしばらくすると、赤みがかった板戸の外から名を呼ばれた。


「はーい」

あたしは返事をする。


「依頼人を、お連れしました」


どうぞ、と声を掛けると戸が開く。

そこには、白い袈裟頭巾けさずきんを頭から被り、その下には法衣ほうえを纏った僧衆が控えていた。


美墨みすみ殿」


大柄な僧衆の後ろから、小柄な着物姿の男が顔を出す。


「おっさん!」


この間は本当にありがとう、助かったー! と、あたしがおっさんに駆け寄るのを見て、僧衆は驚いたように目を見開いた。


では、私はここで。また一刻後に迎えに参りますと、僧衆の彼はそそくさと出て行く。


「……あまり距離が近いと、お叱りを受けませんか」


おっさんは心配そうにあたしを見た。


「いいの、いいの。あたしはずっとこんなんだから。そもそも、壱は皆んなお堅いのよね。

まあ、何かあっても隊長にいくだけだし、大丈夫」


隊長さんがすこし可哀相ですね、と、おっさんがちいさく笑った。


「はい、そこ座って」


あたしは座布団におっさんを座らせて、用意されていたお茶を勧める。


二人でずずっと、熱い緑茶をすすった。


やかんが掛けられた囲炉裏の炭が、時おりぱちぱちと音を立てている。


「おっさんは、絵師だったんだね」


あたしは一口飲んだ後の湯呑みを、手のひらでゆっくりと弄んだ。


おっさんはまたお茶をすすってから、はい、とにっこり笑った。


「そんな大層な者ではないですが」


ふうん? と、あたしは首を傾げる。

あたしは絵とか芸術とかよく分からないけど、やっぱりおっさんは奥ゆかしい人なんだなと思った。


……と、 足が痛くなってきた。


正座は苦手だ。

よいしょ、と胡坐あぐらをかく。

今日は袴姿だからこれもまあ、様になるだろう。


「おっさんも、崩していいよ」


私はこのままで大丈夫ですよ、と、おっさんは姿勢を崩さなかった。

ちょこんと座布団の上に正座をしたまま、優雅にお茶を飲んでいる。


「……あたし、おっさんと違ってがさつだから、見てて色々冷や冷やしたでしょ」


ごめんね、と言うと、おっさんは微笑んだまま、ゆるゆると首を横に振った。


「貴女は、私が依頼したことを、やり遂げてくださいました」


「それなら良かった」


あたしは湯呑みを畳に置くと、うーんと、腕を伸ばして背中を反らせた。


「……なんで自分のことって、よく分からなくなっちゃうんだろうね」


おっさんは、静かに笑みを湛えたまま、何も言わなかった。


「やりたいことって、本当はずっと自分の中にあるはずなのにね。なんでいつの間にか、見えなくなっちゃうんだろう」 


あたしはぬるくなってきたお茶を、一気に飲み干した。

囲炉裏に掛けてあったやかんを外して、急須に湯を注ぐ。


「私が、絵師として世に出たのは、還暦を過ぎてからでした」


あたしがやかんを戻して、おっさんの湯呑みにお茶を注ごうとした時だった。

おっさんは、ゆっくりと口を開いた。

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