第45話 薫陶⑩

三峯神社の奥宮は拝殿の正面に聳える、妙法ヶ岳みょうほうがだけという霊峰の山頂に鎮座している。


ここからはまた山道を抜けて、一時間半程歩けば奥宮には辿り着くのだが。

今日は本殿までの参拝で終えて、宿坊に泊まる予定だった。


「あの日、あそこまで行きたかったんだけどなあ」


俺は目を開けて、恨めしげに隣のミスミを見やった。


「なーに言ってんの、あんな恰好で。しかもあんな辛気くさい顔しながら。危ないったらありゃしない」


ミスミは呆れたように、右の眉を上げた。


「明日行けるなら良いじゃない。ここの狼達が、知らせてくれたのよ。馬鹿な若者がふらふらと、あられもない姿で山を登っておりますって」


「馬鹿……。そしてあられもないって……」


「あいつはいけ好かないけど、ここの仔達は良い子ね」


ショックを受ける俺を無視して、ミスミはひとりうんうんと、納得したように首を振る。


「じゃあ、ミスミはその馬鹿な俺がふらふらと、その、あられもない姿で山を登るのを止めてくれたと。

あの、虎の姿で」


そうよ、とミスミはしたり顔でうなずく。


「あの時のあんたは、奴らの格好の餌食よ。

まあここだったら、万一取り憑かれたとしても、ちゃんと参拝すれば落としてはもらえると思うけど」


ミスミはけろりとした顔で、恐ろしいことを言う。


「本当は、この姿であんたに声掛けるはずだったんだけどね」


ミスミはぱっと大きく手を広げてみせた。


「たまたま隠仁おにがあたしの目の前に現れたから、皆んなを煩わせるまでもないと思って。

ここは憑き物落としでも有名だから、この辺りによく落ちてるの、あれ」


流石に狼の縄張りだから、落っこちてるのはちっこいのばっかりなんだけどね、とミスミは首をゆっくりと左右に曲げながら腕を伸ばす。


さっきから所々、彼女が何を言っているのか、正直よく分からなかったが。

魔物の類を、さも山道に落ちているどんぐりか何かのように話すから、くらくらしてくる。


「……まさか、日本の山で、虎と出くわすとは思わなかったよ」


「まあね」


ミスミはどこか誇らしげで、そして何故か嬉しそうだった。


「まあねって。なんなんだよ、もう」


そんなミスミに、つい俺は我慢できずに噴き出してしまった。

ひとりしきり一緒に笑いあって。そして。


「……なあ、ミスミ。あの時の、あの人ってさ」


俺は、口火を切った。

今日は、この話をミスミとしたかった。

ここで。


ミスミが笑うのをやめて、俺を見る。


「……もう、あんたには分かっているでしょ」


俺は黙ってうなずく。


「やっぱりそうなんだな。あの人は、いつかの」


遠い昔、在りし日の。

同じ魂を持って、違う時代を生きた。


「俺なんだな。前世の、もしかしたらもっともっと前かもしれないけど、俺なんだ」


ミスミは穏やかに目を細めた。


「そう。あのおっさんから、どうにも情けなくくすぶってる今のあんたに、活を入れてきてくれって。頼まれたの」


おっさんって、言い方、と思わず突っ込む。


でも、もうミスミは笑わなかった。


「で、あんたは。一体、これからどうしたいの」


ミスミは真っ直ぐ俺を見つめ直した。


「どうしたいの。本当は」


言ってごらん、と彼女は静かに言って、俺の言葉を待つ。


「俺は……」


俺は、どうしたいんだろう。


本当は。

どうしたいんだ。


どこへ、行きたいんだ。


「大丈夫。言って、いいよ」


ミスミは俺を安心させるかのように、噛んで含めるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「絶対に、笑わない。

絶対に、馬鹿にしたり、否定したりなんかしない。

約束する」


キャップの下で、黒髪がふわりと揺れる。

ミスミが俺に一歩、近づいた。


「あたしは、絶対って言葉は好きじゃないけど。

この身に代えて、約束する」


ミスミは背伸びをすると、俺が着ていたダウンコートの首元を握って、ぐっと自分に引き寄せた。


背の低いミスミに引っ張られて、かがむような姿勢になる。


「タカシナ」


ミスミの、紫がかった、暗い青の瞳が、俺に迫る。

それは静かに燃えていて、穏やかな熱を帯びていた。


「何の縛りも、何の制約も、何の制限もなかったら。

誰からも、何か言われることもなかったら。

あんたは、本当はどうしたいの。

どうしてあの日、ここにいたの」


何の縛りも。

何の制約も。

何の制限も。


ないのなら。


誰からも、何か言われることも、ないのなら。


目の前の、ただ泰然と在り続ける神山と、ミスミとが、重なっていく。

山と、ミスミと、俺の、現身うつしみの境目が滲んで、霞んで、ひとつに溶け合っていく。


俺はその中で、大きく息を吸って、吐いた。


深く。

身体が、心が、解けていく。


「俺は、本当は……」


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