第43話 薫陶⑧

京王井の頭線の渋谷駅と、JR渋谷駅を繋ぐ渋谷マークシティの上空回路からは、スクランブル交差点がよく見える。

その上に、ひとりの男が立っていた。


黒のダウンジャケットに黒無地のデニム。

ダウンの下には、さらに同色のブルゾンを重ねている。


「来たな」


男の前に広がる渋谷の街並みが、二重にぶれたように揺れた。 


次の瞬間、交差点から、大きな黒い龍が姿を現した。


「こっちだ」


そう言うと、男はすっと飛び上がった。

ジャケットに空気が孕み、それは黒い翼のようにふわりと広がった。


寒いな……、と言いながら中のブルゾンのジッパーを上まで上げると、男は龍を手招きする。


龍は男の姿を捉えると、その身をしならせながら男へと近づいていく。


男は龍が向かってくるのを確かめると、ダウンのポケットに手を突っ込んで、弾みをつけて南東へと飛んだ。

龍がその後を追う。


男の目の前に、空へと聳え立つ高層ビルが迫る。

それは大小さまざまなパネルが組み合わさり、並べられた、特徴的な外装をしていた。


男は全面にガラスが張られた、ビルの玄関口の屋根部分にふわりと降り立った。

それは上から見ると瓢箪の形をしていて、中を覗けば吹き抜けの空間に、地上と地下を繋ぐ長いエスカレーターが走っている。


男は、ビルの上へと目を走らせた。


「ここから、昇れる」


男を追ってきた龍は、ふと眼下を流れる渋谷川に目を走らせた。


それは、昔と比べれば、陽の下に流れるものはごく僅かであった。

改修工事をされ、氾濫しないよう整備された川は昔の勢いを失い、コンクリートの護岸に挟まれて行儀良くおさまっている。


男が、口を開いた。


「人の手が入り、自然は去った」


龍がゆるゆると頭を上げた。


「それは長きに渡り、すこしずつ、貴方の力を弱めてしまった」


男は龍を見つめる。


「だが、再び人の手が入り、流れが生まれた。

長きに渡ろうと、すこしずつであろうと、貴方はきっと力を取り戻していける」


また、ここからだ、と男は呟いた。


龍は天を見上げた。

そのままビルの外壁に沿うようにして、身体を左右にしならせながら上へ上へと昇っていく。


龍が今やビルを昇り切ろうとしたその瞬間。


「そのまま、行け」


男が叫ぶ。


龍は躍り上がって、天へと昇った。


立春の空を、黒龍が舞う。


龍の肢体を覆う鱗は黒翡翠のようにきらきらと光り、鋭い鉤爪を持つ掌は、ゆっくりと開かれたり結ばれたりを繰り返している。

大きな口は微笑んでいるかのように優しく開かれて、その瞳は輝きに溢れていた。


ふと、龍の体から墨がじわりと滲むようにして、大きな雨雲が現れ始めた。

薄墨色のその雲はどんどん空に広がって、龍は身体をくねらせながら、次第にその中に溶け込んでいく。


「烏丸隊長」


男が振り返る。


巌虎いわとら


白いキャップを被った、黒いパーカー姿の小柄な女性が、短髪の男と一緒に立っていた。


「よくやった。青嵐せいらんも。大事だったな」


青嵐と呼ばれた短髪の男が、烏丸に片膝をついた。


「申し訳、ございませんでした。巌虎、そして人間までも危険に晒し」


俺は……、と言葉を詰まらす。


烏丸は首を振った。


「よく、堪えてくれた」


「青嵐!」


黒髪を顎下で揃えたおかっぱ頭の男が、巌虎達の後ろから息を切らして現れた。


「雉か。勢ぞろいね」


巌虎がキャップのつばを上げる。


「すまん、すぐに駆けつけることができず」


黒髪の男は青嵐に駆け寄ると、彼と共に膝をつく。


「心より、感謝申し上げます。烏丸隊長が一緒に戦ってくださらねば、私も危うかった」


深々と頭を下げるふたりに、烏丸はちいさく溜息をついた。


「……もういいから。ほら、青嵐も、一色いっしきも立て。お前らは昔から堅すぎる」


四の連中と、足して二で割ると丁度って奴だな、と烏丸はぼやいた。


その時、遠くでゴロゴロと雷鳴が聞こえた。


見上げれば、空はすっかり厚い雲に覆われていて、龍の姿は見えなくなっていた。

そう時を置かずして雨が降り始める予感が、街に漂っていた。


「龍天に昇る、ね」


巌虎が呟いた。

烏丸が意外そうに隣を見下ろした。


「よく知っているな」


「そりゃあまあ。元は、向こうから飛んで来ましたから」


にやっと嗤う巌虎のキャップを、春の雨粒が優しく叩き始めた。

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