第42話 薫陶⑦

「どうして。あんたが」


「此岸は、俺が離したのに」


巌虎いわとらも、猿も唖然とした顔でタカシナを見つめた。

 

まさか。

あの時。

山で、あたしが隠仁おにとタカシナを繋げてしまったから……?

だから……。


どーん。


再び地鳴りがして、はっと巌虎と猿は隠仁の方を振り返った。


「なんで……」


そこには、もう一柱、黒い炎が立ち昇っていた。


今まで戦っていた隠仁と似た背格好。


だが、手に持つのは金砕棒かなさいぼうではなく、一振りの大きな刀だった。


ゆらゆらと、ふたつの炎柱が巌虎と猿の方へ向かって歩いてくる。


猿が刀を握り締める。

巌虎も覚悟を決めたように、前を見据えた。


タカシナだけは。

何があっても絶対守らなきゃいけない。


「ミスミ……ミスミ殿」


ふと後ろから声を掛けられて、巌虎は弾かれたように振り返った。


すぐ後ろで、タカシナが、悠然と微笑んでいた。


「……あんた、誰」


巌虎は目を細めた。


「タカシナじゃ、ないわね」


彼は静かにうなずいた。


「おや。お忘れですか。私のことを」


そう言って、タカシナは着ていたダウンコートのポケットを手探った。


「ああ、ありました」


取り出したそれは、一本の筆だった。


「先程、隊長さんから一本いただいてまいりました。自分は、今は行けないからと」


そう言って、柔らかく微笑む。


「あんたは……」


「残念ながら、今はゆるりと話している時間はありません」


タカシナは目前に迫る隠仁を見つめた。


「貴女の墨をお借りしたい」


巌虎は、はっとしたように目を見開いた。


「美墨。美しい名だ」


その、真名まなを呼ばれ。

紫を帯びた、暗い青の瞳が光る。


巌虎の咆哮が響き渡った。


隠仁たちの歩みが止まる。

 

巌虎の縞模様の黒から、もやのようなものが立ち昇った。

それは次第に青みがかって、濡羽色に輝いた。

幾筋にも薄くたなびいて、巌虎の周りを漂い始める。


「巌虎……」


猿は、魅入られたように彼女を見つめた。


タカシナは、筆を執った。

筆が、巌虎を取り巻く濡羽色の靄を纏う。

 

そのまま空に、筆を走らせた。

 

タカシナの突き上げるような力強い筆先から、二本の長い角が、天に向かって雄々しく伸びてゆく。


筆が波打つように流れた跡には太い鼻梁が生まれ、まるで絹糸のような、艶やかで長い髭がたゆたった。


タカシナの筆が猛々しく躍ると、大きな口が開かれて長い舌が流れ、鋭い牙が立ち並んでいく。


彼が全身を使い、下から上へと筆を大きくしならせれば、その跡を追うようにして、硬い鱗に覆われた肢体がゆるゆると蛇行しながら現れた。


ゆったりとうねる肢体から筆先に乗って大きな掌と、鋭い三本爪が描かれると、それは開いたり握ったりを鷹揚に繰り返す。


「これで、最後です」


タカシナはそう言うと、すっと息を吸い込んで、目を閉じた。


何ごとか口の中で唱え、目を開くと巌虎の墨を再び筆に纏う。


最後にタカシナが描いたのは、目だった。

 

画竜点睛がりょうてんせい

 

瞳を宿した龍は、命を得る。


龍は肢体を大きくしならせると、タカシナの頭上高く飛び上がった。


果たしてその大きさはいかほどか。

ゆうにその身で、この交差点をぐるりと囲むことができるほどだった。


龍は眼下の隠仁に睨みを利かす。

狙いを定めるかのように目を細めると、その口を大きく開けて真っ直ぐに向かっていく。

 

「……うおおおおお!」

猿が叫び、刀を振りかざして走り出す。


巌虎も濡羽色の靄を纏ったまま、空へとたけった。

鋭い牙を剥き出しにし、龍と猿の後に続いて地を蹴る。


彼らを待ち受ける隠仁の黒い炎が、より激しさを増して、爆ぜた。

それぞれ、金砕棒と巨大な刀をもたげる。


また大きく、地鳴りが響いた。


人ならざる者の、怒号と唸り声、叫び声が入り混じる。


しばらくして渋谷の空に、黒くくすぶった煙がふたつ立ち昇ったが、それはすぐに消え去った。


そして、龍に抱かれた街を、静寂が包んだ。

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