第34話 自由⑮

ごうごうと音を立てながらほとばしる清流は、車に乗っている時は分からなかったけれど。

車をおりれば、思いのほか山の中に大きくひびいていて、はく力があった。


弟はこわいのか、お父さんの手をぎゅっとつかんだまま、はなれようとしない。


「すずは、こわくないか?」


先を歩くお父さんがふり返った。


左手が、こっちは空いてるよと言わんばかりに、ひらひらとふられている。


「うん……!」


走って、お父さんの手をつかむ。


わたしがお父さんと手をつないだのを見た弟が、うれしそうに笑った。


「こうして三人で手を繋いで歩くのも、いいもんだな」


わたしと弟で、お父さんの手をぶんぶんと、ふり回しながら歩く。


ふざけない、とたしなめられながらも、三人でひとかたまりになりながら、けい流へと近づいていく。


「うわぁ。すごいねえ」


弟が声をあげて、道路のらんかんから顔を出した。

落ちるなよ、とお父さんが弟の手を引く。


川底に岩でもあるのだろう、ところどころで白いしぶきを上げながら、川は山の中へとりゅうりゅうと流れていく。


それとは対照的に、水際ぎりぎりまでせり出した巨岩はおごそかで、清らかな静けさをたたえていた。


なんて、大きい。


わたしは目の前にそびえ立つ断がいを見上げながら、お父さんの手をぎゅっとにぎり直した。


おそれすら感じさせるような、あっとう的なその存在感に、頭から飲まれそうになる。


神様が住んでいるところ。


そんな気がした。


「鏡岩。久しぶりに来たなあ。すずが六才の時ぶりだから、もう五年前か」


あの時は、さとるはまだ、お母さんのお腹の中にいたなあ、とお父さんがつぶやいた。


おなかのなかにー? と、弟は不思議そうに首をかしげる。


あの頃からお母さんはすこしずつ、体が弱ってきていた。


この子は、里帰りして産みたい。


お医者さんは東京で産むことをすすめたけど、お母さんは自分が生まれ育ったところで産むと言ってきかなかった。


弟は、お母さんと三年しか、いっしょにいれなかった。


わたしより、短い。とっても。


弟のほほをたたいた痛みが、お父さんとつないだ手の間でよみがえる。


「お父さん」


んー? と、お父さんがわたしに顔を向けた。


「ゆりさんは、元気?」


お父さんが、え……、と、口をちいさく開けたまま、固まった。


弟がはっとした様子で、わたしを見ている。


わたしは、陽に照らされて、ゆうぜんとたたずむ鏡岩を見上げながら口を開いた。


「また、みんなでハンバーグ、食べたいな」


隣のお父さんに、ゆっくり顔を向ける。

お父さんは、だまって聞いている。


「でもね。ゆりさんが、ひとりで作るのはいやなの」


つないでいない左手を、コートのポケットに入れた。

けい帯に、こつんとつめが当たる。


「ハンバーグって、作るの楽しいでしょ。

特に空気をぬくところが。ボールを投げ合うみたいに、両手でキャッチボールする」


手がべたべたになるから、洗うの大変なんだけど、と、わたしは続けた。


ポケットの中で指をのばすと、けい帯の鈴にたどり着いた。それをそっと、にぎりしめる。


「玉ねぎを切ったら、包丁は終わって。

お肉と混ぜるところからは、もうあぶなくないから。

お母さんといつもいっしょに、おしゃべりしながら作ってたの。だから」


わたしは息を吸い込んだ。


「だから、そうやってハンバーグ、作りたいの。ゆりさんとも」


お父さんは、大きくうなずいた。


「……ぼくも、いっしょにつくりたい」


弟がお父さんの右側から、ひょこっと顔を出した。


「うん。さとるも、いっしょに作れるよ」


弟がにっこりほほえんだ。


「焼くのは、お父さんがやる」


えー、できるのー? とわたしが笑って、お父さんをのぞき込んだ。


あっ信用してないな!? これでもお父さんは若い時……。


そう話し始めるお父さんの目は、すぐそこを流れ行く川の水面のようにゆれていて、やわらかく光っていた。

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