第33話 自由⑭
「わー! きょうりゅうだ!」
「さとる、待って。走らない」
大きなきょうりゅうのオブジェを見つけて走り出した弟の後を、お父さんが追いかける。
わたしは弟に押し付けられたダウンジャケットを手に持ちながら、ちいさくため息をついた。
こうなると、もう気のすむまで動かない。
よいしょ、とジャケットをたたんで持ち直した。
お父さんがふり返る。
「すず、お父さんはさとるを見てるから。
好きなところ、見て来ていいよ。ちゃんとけい帯、持っているね?」
わたしは赤いコートのポケットから、鈴のついた白色の、ちいさなけい帯を取り出してみせた。
ちりん。
ついた鈴が、音を立てる。
あれからすこしして、万が一の時のためにと、お父さんが買ってくれたけい帯。
お父さんはうなずくと、わたしからジャケットを受け取る。
ぜったい博物館の中から出ないことと、お手洗いに行く時は電話することを約束して、弟の方へ顔を戻した。
弟のはしゃぐ声を背中で聞きながら、わたしは博物館の奥へと進んでいく。
最初から、わたしが見たいものは決まっていた。
あれはまだ、わたしが小学校に上がったばかりの頃。
お母さんに連れられて、いっしょに見た、一枚の絵画。
たくさんのこはくでできた、大きなモザイク画だった。
博物館の奥。
明るいライトに照らされて、それはわたしを待っていた。
『人魚の涙・ユラテ』
あの頃のわたしの背と、ほとんど変わらないほどの、大きな絵。
両手をめいっぱい広げても、その端に届かない。
あの日の、お母さんの声が聞こえるような気がした。
『バルト海っていってね。
ここから、遠い遠い海に伝わる、悲しくて、美しい人魚のお話なの』
お母さんは、わたしの手をにぎりながら、教えてくれた。
『そこではね、お母さんの生まれたこの場所と同じように、海が泣くと、こはくが取れるんだって』
『海が泣くの?』
『そう。愛しいひとを思って海は、人魚は泣くのね』
お母さんは、大きなお腹をそっとなでた。
『だから、こはくは、人魚の涙なんだって』
わたしはその、たくさんのこはくでいろどられた、美しい絵を見上げた。
人魚は手を合わせ、その白い顔を下に向けて、そっと目をとじている。
うろこはうすい黄色に、そのおひれは茶色に、きらきらと輝いていた。
どこかで、この色を、見た気がする。
とても近くで。
そう、ふれるくらいに近く。
人魚と同じ色のうろこと、おひれを持った魚たちが泳ぐ絵の真ん中には、大きな三日月がうかんでいた。
あの時は、満月だった。
あれ? なんだ?
わたしは何を思い出そうとしているんだろう。
何を、忘れてしまったんだろう。
ちいさく首をかしげて、ポケットに手をつっこむ。
手に当たったけい帯の鈴が、ちりん、と鳴った。
絵の中にうかぶ黄色い月は、照明の光のかげんで、金色にかがやいて見えた。
同じ。
同じ、瞳の色の。誰かが、言っていた。
お別れする前に。
お母さんのように、わたしの手をにぎりながら。
もし、何かに負けそうになる時があっても。
わたしが決めて、選んだ心が、わたしを助けると。
たとえ、何かに負けて、間違えてしまったとしても。
わたしが大事にしてきた心が、わたしをあるべき道へ戻してくれると。
人魚は、まるで月に祈るかのようなおだやかな顔で、静かな海の中をたゆたっている。
どこまでも、いつまでも、きれいにすんだまま、進めたらと思うけれど。
深い山あいを、人の住む街を、とどまることなく流れるあの川は、時によごれ、よどむこともあるだろう。
でも。
その行きついた先に、たどり着いた先に海があって。
悲しくて、つらくて、泣いてしまうことがあっても、わたしは。
流す涙が、こんなにもきれいなものであれるように、生きていく。
わたしは、そっと目をつむった。
そしていつか、お母さんと、この絵と同じ色の瞳を持つ人と、再会できることがあるのなら。
そう思ってずっと、選んできたと、生きてきたと、伝えたい。
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