第32話 自由⑬
窓を開ければ、春とは名ばかりだったことに気がつく。
まだしんとつめたい風が、あたたかい車内の空気をさらっていく。
「寒い寒い! すず、窓しめて」
運転をするお父さんがぶるりと体をふるわせて、バックミラーごしにわたしを見た。
「ごめん、今しめる」
あわててスイッチを押すと、車の窓がゆっくり上がっていく。
高速をおりてしばらく走れば、道路のすぐ側にはまだ、冬のおもかげを残した山やまが広がっていた。
「天気は良いけど、まだまだこっちは寒いなあ」
さすが東北、と、お父さんは窓の外に目をやりながらつぶやいた。
「おふくろが、東京に引っ越してきた理由がわかるよ。この寒さ、年取ったらきついよな。
あっちじゃもう、桜のつぼみがふくらんできましたなんて、ニュースで話してるんだから」
弟が、分かっているのかいないのか、わたしのとなりでうんうんとうなずいている。
来年小学校に入るのを意識し始めたからなのか、最近、おとなっぽくふるまうのがブームみたいだ。
「でも、お父さんも、お母さんも、大学生までこっちにいたんでしょ。寒さには慣れっこなんじゃないの」
お父さんはいやー、と首を横にふる。
「いったんあっちでの生活に慣れちゃったら、もうだめだな」
普通に寒いよ、と言ってお父さんは笑った。
お母さんの実家は、場所で言ったら青森から向かう方が近いくらい、岩手の中でも北の方にある。
お母さんの、生まれ育ったところに行きたい。
お父さんに、どこか行きたいところはあるかと聞かれて、わたしはそう答えた。
こわくて、大変なことが続いたばかりだったから。
お父さんはわたしを、元気づけたかったんだと思う。
あれから一か月ほど、わたしや家が落ち着くまでのあいだ。
また、おばあちゃんが家に来てくれた。
落ち着いたころあいをみはからって、おばあちゃんが帰っていった後。
お父さんは会社から、いつもより長めのお休みを取った。
お母さんの命日も、近いしな。さとるも連れて、久しぶりに行ってみようか。
お父さんは、どこか遠くを見るような顔をして、うなずいた。
ゆりさんとはしばらく、会っていない。
弟も、わたしにはなにも言わなかった。
車のつめたい窓に、おでこをくっつける。
トンネルを抜けると、深い山間にたけだけしい断がいが目に飛び込んできた。
切り立つ大岩の上からは、たくさんの木々がわたしたちを見下ろすようにそそり立っている。
絶壁の岩肌のすきまからでさえも命を燃やし、枝葉をのばすその姿は力強かった。
弟も、チャイルドシートから身を乗りだすと、窓に張り付いた。
「したに、かわも、ながれてる」
おさかないるかな、と弟が目をこらす。
ゆるやかなカーブをえがきながら流れていく川は、陽の光でエメラルドグリーンにかがやいていた。
「きれいだろう、けい流だよ。ここまで来たらもうすぐだ」
お父さんがまぶしそうに目を細めた。
静かにすきとおる水面は、どこまでも続いていくように見えた。
山を分けいり、長く時間をかけながら遠くまで流れ流れて、その行きつく先には。
一体、何があるんだろう。
今は、こんなにもきれいだけれど。
ずっと、このまま、いれるのだろうか。
「帰りにでも、寄れたらいいな」
わたしがつぶやくと、お父さんはもちろん行こう、と言ってくれた。
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