第31話 自由⑫
「すずさんは、全部、いやだーーー!」
びっくりして、ぽかんと口を開けたまま、椿さんを見上げる。
「いろいろ、おとなの事情も、みんなの優しさだって。分かるけど。いやなんだーーー!」
椿さんは大きな口を開けて、さけんだ。
「……ほら。すずさんも」
椿さんが、こほんとせきばらいして、わたしをうながした。
わたしもうなずく。
いっしょに、立ち上がった。
「いやだーーー!」
「すずさんは、いやだーーー!」
「もう、とにかくいやだーーー!」
「いやなんだーーー!」
ふたりで、さけびまくる。
「……はは」
椿さんが、ぜいぜいと息をしているのが、にあわなくて。
なんだかおかしくなってきた。
「……なんですか、いきなり、笑って」
椿さんがまた、心外そうにわたしを見つめた。
「最後に、もう一度、さけんでいい?」
椿さんが、だまってうなずいた。
目をつむって。
すうっと、息を吸いこむ。
庭に差す光は、すこしずつ春の陽気をはらんでいて。
目を閉じても、それは優しく、そこにあった。
「お母さーん! わたし、忘れないよー!」
わたしは目を開けた。
まだつめたさが残る風は、ぴしぴしとほほをさすけれど。
陽の光はやわらかくわたしと、椿さんを包んでいた。
すこし、声をおさえてつぶやく。
「でもね。ゆりさんのこと。たぶん、これから」
椿さんが、こっちを見ている。
「……わたし、好きに、なっちゃうよーーー!」
椿さんも、息を吸いこんで、さけんだ。
「好きに、なって、しまうそうでーーー!」
わたしは、笑って、またさけぶ。
「本当は、まだ、すこし、いやだけどーーー!」
「本当は、まだ、すこし、いやだそうでーーー!」
そうさけんでから、ふたりで、顔を見合わせた。
ぷっと吹き出して。
あはははと、いっしょに笑い合う。
椿さんが、こんなに大きな口を開けて笑うのを、初めて見た。
いつもの、ぎゅっとむすんだ口もとがほどかれて。
すきのない目は、今は優しく細められて、やわらかく下がっている。
やっぱり、椿さんはきれいだと思った。
「椿さん、ありがとう。本当に、ありがとう」
椿さんは、かがんで、わたしと目線を合わせた。
「あなたの心は、あなたのものです」
そっと、わたしの手を取った。
「どんな心も。あなたの中にあるものを、わたしは、大切に思います」
「……悪い心も?」
わたしはこわくなった。
良い心だけなら、どんなに良かっただろう。
さっきさけんだわたしの中には。
けして良いとは言えないものが、確かにあった。
「感じたものを、自分でふたをしてはいけません」
椿さんは、そっとわたしの手をはなして、みぞおちの辺りにその手をあてた。
「生きていれば、たくさんの心があなたの中に生まれます。
だれかを優しく思う心も。
だれかを、何かをゆるせず、つらく思う心も。
あなたがこわく思う、悪い心も」
椿さんは、わたしから手をはなして。
ふと、ウッドデッキに置きっぱなしの、弟がかいていたおにのお面をながめた。
「おには、悪い心にひかれます。
音もなくしのび寄り、それをかくれみのにして、すこしずつ大きくなります。
そして、まを、さします」
灰色の帽子の男の人がうかんだ。
あの夜を思い出して、思わずからだがかたくなる。
椿さんがゆっくりと、わたしに目を戻すと、口を開いた。
「どの心で生きるのか、人は、選べます」
「選ぶ」
椿さんはうなずいた。
「どんな心も、あっていいんです。
あると、自分でみとめるだけ。それだけで、そこから見えるものも、迷いから、覚めることもあります」
あると、みとめるだけ。
わたしは、そっとくり返した。
「大事なのは、どの心で、生きるか、です。
良い心でと、決めたなら。
決めた心が大きくなって、あなた自身を、おにから守り、寄せつけません」
どの、心で。
ずっと、わたしは、選べたんだ。
自由に。
そう。
ずっと、わたしは、自由だった。
あの、むねのいたみも、確かにあったのに。
おさえて、むしして、なかったことにしていたのは。
わたし自身だった。
わたしは、うなずいて、椿さんを真っすぐに見つめた。
「……わたしが選んだ心の先に、お母さんが、笑っていてほしい。
お父さんとさとるが、……ゆりさんが、笑っていてほしい。
椿さんが、笑っていてほしい」
だから、わたしは、選ぶ。
椿さんの瞳がゆれた。
黄色と茶色が入り混じっていて。
光のかげんで、金色にも見える、その美しい色は。
それはいつか、お母さんのふるさとで見た。
こはくという、ほうせきに似ていることに、気がついた。
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