第30話 自由⑪

どこか遠くで、小鳥がさえずる声がした。


それ以外は、何も聞こえなかった。


お父さんや弟の声はもちろん、行き交う人のざわめきも、道路を走る車の音も、何もかも。


わたしと椿さんだけぽっかりと、真昼の庭に取り残されたような。


世界はずっと遠く、追いつけないところへ行ってしまったような、そんな感じだった。


「大丈夫。何も心配することはありません」


静かに口を開いた椿さんを、わたしは見上げた。


「ありがとう。ずっと、わたしのことを守ってくれて」


椿さんは、不思議そうに首をかしげた。


「お礼など。それが、私の仕事ですから」

 

でも、ありがとう、なの。


わたしは、もう一度、くり返した。


椿さんは、そうですか、と言って、ちいさくほほえんだ。


「あの日。いやだったの。ゆりさんが家に来たのが」


椿さんはだまって、となりで聞いている。


「わたしの知らないお店で、コロッケを買ってきたのも。そのあと、すずちゃんは好きにしていいよって言って、洗たく物をたたんだのも、全部」


言葉が、次から次へと、あふれていく。


「好きにしていいよって、なに。わたしは、ずっと、好きにしてきた。お父さんが、さとるが、好きだから。お母さんが、好きだから」


椿さんは、何も言わない。


ただ、わたしの話を、じっと聞いているだけ。


「お父さんと、さとるの、笑う顔が見たかった。

それだけ。お母さんは、生きている間ずっと、お父さんと、さとるを笑顔にしてきた。

だから、お母さんの代わりにわたしが」


むねが、苦しくなる。


「なんで、わたしのやりたいことをうばうの。なんでゆりさんは」


お母さんがやりたかったことを。


うばうの。


からだの奥から、こみ上げていたそれが。

怒りなのか、悲しみなのか、それともまた別のものなのか、よく分からないけれど。


ただひとつ分かるのが。


わたしは、いやだった。


ゆりさんに、そうされるのが、いやだった。


椿さんが、わたしの手をそっとにぎった。


「ハンバーグだって。あんなの、わたしの好きなハンバーグじゃない」


わたしは、椿さんの手をにぎりかえした。


でも。


分かるの。


ゆりさんが、わたしのことを思ってくれていることも。


ふだん、おうちの手伝い、弟のめんどう。

すずちゃんは、いつも、本当によくやっているから。

わたしが来た時くらい、好きにさせてあげたい。


ゆりさんが、そう、思っていることも。


「どんどん悪い子になる。ゆりさんが来るとわたしは」


目の奥が、じんと熱くなった。


鼻が、つんとする。


「お父さんと楽しく笑ってるのもいや。さとるが、『おかあさん』ってよぶのもいや」


椿さんは、ただ、わたしの手をにぎっている。


「わたしに気を使うのもいや。でも、ぜんぜん、気を使わないようになるのもいや」


自分でも、ずいぶんとわがままなことを言っていると思いながら、わたしは続ける。


「お母さんみたいに、せいざするのもいや。お母さんみたいに、さとるに、お父さんに、優しくするのもいや……」


わたしは、声をつまらせた。


涙が出ないように、泣かないように。


必死でおさえる。


くちびるを、かんだ。


椿さんが、となりで、すっと息をすいこんだのが聞こえた。


「……全部、いやだーーー!」


思わず、わたしがひっくり返りそうになるくらいの。


大きな声で、椿さんが、さけんだ。

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