第35話 自由⑯完結


険しくそばだつ岩山に生い茂る木々の間から、一匹の大きな白い狼が、眼下を流れる渓流を見下ろしている。


彼が静かに目を向ける先には、楽しそうに笑い合う親子の姿があった。


三人の笑い声が風に乗って、さざなみのように岩壁へと押し寄せる。


狼は、気持ちよさそうに、そっと目を瞑った。


「お疲れ様」


耳がぴくりと上下に動き、狼は目を開けて振り返った。


黒いダウンジャケットに、黒無地のデニム。

ダウンの下にはさらに同色のブルゾンを重ねて、首元には暖かそうなマフラーを巻いた、ひとりの男が現れた。


寒いなここは、と手を擦り合わせながら、狼の隣に来て、一緒に下を見下ろす。


「お嬢さん、話せたみたいだな」


些か着膨れした男は、こちらを見上げるようにして佇んでいる、少女の姿に目を細めた。


「烏丸隊長」


いつのまにか狼は、背の高い、白い長髪の男に姿を変えていた。


良かったな、と烏丸が声を掛けると、男はうなずいた。


「依頼人からはただ、娘の話を聞いてあげてほしいと言われた時は正直、どうしたものかと思いましたが」


形の良い口びるが、優しくほどかれる。


「誰かに、何かに、縋るでも、求めるでもなく。

すずさんの中に全てが、ありました」


私はただ、話を聞いていただけだと、男は呟く。


「自分の心の内を知り、それを手に取った瞬間から、どう生きていくか、自分で自由に決めていけるのだと。始めていけるのだと、私に教えてくれました」


切れ長で、涼しげな目元をほころばせ、眼下の少女を見やる。


「……仕事の顔と、仲間に見せる顔と、違いすぎるな。お前は」


烏丸がすこし呆れたように、隣の男を見上げた。


普段からそういう顔見せておけば皆、もっと分かりやすく懐くぞ、と烏丸はぼやく。


「私は、いつも、同じですが」


引き潮のようにすっと男の笑みが消えていくのを、烏丸はおかしそうに見ていたが、ふと、その名を呼んだ。


「雪狼」


「はい」


白くて美しい髪をさらりとなびかせて、雪狼は烏丸に顔を向ける。


「後悔は、していないか」


唐突とも思える問いかけに、雪狼は目を見開く。


「あのまま弐ノ隊にいれば、刀を置くこともなかった。今は何かあっても、自分の牙しか使えない。歯痒くはないか」


「……何か、猿や雉から、言われましたか」


雪狼は眉根を寄せ、その美しい顔をゆがめた。


「お前は、隠仁おに退治に向いていた。今もそれは変わらない」


烏丸は在りし日を思い出すかのように、目を細めて雪狼を見た。


「お前が抜けてから、『犬』はずっと欠番のままだ。後任を、務められる者がいないと」


何を今更、と、雪狼はその通った鼻筋にしわを寄せると、つめたく言い放つ。


「いなければ、育て上げれば良いのです。

魔滅まめつ〉とて、がむしゃらに隠仁を斬り続けるだけが能ではないでしょう」


まあな……、でもあそこも中々忙しいしな……と、どこか歯切れの悪い烏丸の返しに、雪狼はぴんと来たようだった。


「もしや、お引き受けに?」


「……眷属に向かない奴も少なくないし、受け皿が広がったと思えば、こっちにも利はある。姉さんとも、話がついた」


そうですか……、と、雪狼が目を閉じて、顎に指を当てた。


「確かに、眷属になれないのであれば、他に行き場があることは救いとなりましょうか。

蜂須賀さんや與土よどさんのように、関所内でうまくやっていける方が稀有ですし。若干名、思い当たる顔が浮かばないでもない」


烏丸はうなずいた。


「そして、猿や雉がなんと言ったのかは分かりませんが。私は弐ノ隊に戻るなど、露ほどにも考えてはおりません」


「……お前なら、そう言うと思ったよ。

あいつらも期待はしていないとは言っていたが。

駄目元で一度、と」


余程お前が惜しいんだろうなあ、と烏丸は呟いた。


雪狼はしばらく黙っていたが、静かに首を横に振った。


「私は、決めています」


ゆっくりと、言葉を続ける。


「貴方が、弐ノ隊を去った時から。いえ、貴方が私を見つけた時から。私は貴方に、ずっとついていくと」


その琥珀色の瞳には、一片の迷いもなかった。


「私は、眷属にもなりません。私の生きる場所は、貴方の隣にあります」


「……三峯みつみね御嶽おんたけに、顔向けできないな」


烏丸が、申し訳なさそうに西の方に目をやった。

 

雪狼は、艶然と微笑んだ。


「何も、心苦しく思うことなどありません。忠誠を尽くせる主君と出会えた狼は慶びであると、皆心得ております」


美しく整っているが故の、凄みすら感じさせる笑顔だった。

そうか、と、烏丸は右の眉を上げて、ちいさく息を吐く。


「赤狐や巌虎いわとらあたりが聞きつけたら、愛の告白だとか何だとか言って、茶化されかねない……」


ある意味、合っておりますね、と淡々と話す雪狼の上を、どこか春を感じさせる柔らかい風が吹いて、冬の終わりを静かに告げていった。

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