第27話 自由⑧

椿さんが低いうなり声を上げながら、わたしをかばうようにして、前に進み出た。


男の人は、今日はたいしておどろいていないように見えた。


「また、キたな」


男の人が、口の端を上げた。


何か、変だ。


雑音が混じっているかのように、声がゆがむ。


椿さんが、白い鼻すじに深いしわをきざんだ。


男の人が、包丁を振り上げる。


外灯の光を受けて、刃がぬらぬらと光った。


「椿さん……!」

 

椿さんは体を低くすると、次のしゅんかん、男の人へ飛びかかった。


うなり声と、男の人のどなり声が入り混じる。


男の人が刃物を振り下ろすたび、椿さんはくるりと身をひるがえしてよける。


椿さんの白くてきれいな毛が、時おりぱっと闇に散った。


何か、おかしい。


男の人の動きが、昨日とはまるで違っている。


速すぎて、まるで別人みたいだ。


「じゃまナ、犬め」


男の人が、包丁の刃をなめて笑った。


鳥はだが立つ。


椿さんが目を細めて、白く光る毛を逆立てた。


男の人が笑いながら包丁を振り上げた。


その時、炎のようなものが、男の人を包んだ。


それはぱちぱちと、夏に林間学校でやったキャンプファイヤーのような、勢いよくはぜる音を立てていた。


でも、あの時と違うのは。


炎は、黒くにごっていて。


そこから伝わってくるのは、こごえてしまいそうになるくらいの、冷気だった。


「ひと思イに、やってやロう」


男の人が握りしめていた包丁に、その黒い炎が乗り移っていく。


椿さんがそののどを天に向けて、オオーンとないた。


男の人が、びくっとしたように、いっしゅん動きを止めた。


黒い炎が、すこし弱まった気がした。


椿さんは左右に走りながら、男の人の刃物をさけるようにして、じょじょに間合いをつめていく。


「この、やろウ」


男の人が、宙をかく切っ先にいらだちをにじませる。


椿さんが、その大きな口から白いきばをのぞかせた。


目にも止まらぬ速さで、男の人が包丁を握る左手にかみつく。


椿さんのきばで、黒い炎はさかれるように分かれて燃え上がった。


「くそおオオ」


男の人はもう、炎に全身飲まれてしまっていた。


ぱちぱちと、はぜる音が強くなる。


右手で椿さんを引きはなそうとするけど、椿さんのきばはゆるぎもしない。


頭から、炎の柱が二つ、立ちのぼった。


目があったはずの場所には、あやしげに光る赤い火が、ちろちろとゆれている。


「お……に……」


思わず、口からこぼれたその言葉に、男の人だったそれが、反応した。


ぬらぬらと、かま首をもたげて、赤い目がわたしをとらえる。


右手が椿さんからはなれて、炎の中へ戻っていった。


そして、再び取り出されたそこには。


かみついていた、椿さんの金色の瞳が大きく見開かれる。

 

右手には、もう一本、包丁がにぎられていた。


黒い炎が、その刀身をまた、なめるようにうめつくしていく。


右手が、ゆるゆると振り上げられた。


赤い目は、わたしをとらえたまま。


すず、さん……!


頭の奥で、椿さんの声が、聞こえた。


椿さんが、かみついていた左手からきばをはなして。


わたしの方へかけてこようとするすがたが、ちらりとうつった。


炎から投げ放たれたそれは、わたしに向かって真っ直ぐに飛んでくる。


炎が、わたしの前で黒く燃え上がる。


その時。


風が吹いた。


視界が、黒で染まる。


でも、炎のそれじゃない。


これは、つばさ。


黒よりも、さらに深く、青みががった。


「よく、やった」


その人は、わたしを抱いたまま、椿さんを振り返った。


「今、猿と雉が来る」


その人の後ろから、刀を振りかざして飛び上がる、二つの人影がうかんだ。

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