第26話 自由⑦
家を飛び出した勢いにまかせて、夢中で、ただ足を前に動かした。
気がつけばいつの間にか、足は通い慣れた学校へと向かっていた。
カレーを、三人で食べるはずだった。
お米をといで、セットして。
あとは、お父さんと弟が帰ってくるまでに宿題を終わらせて。
食べたら弟とおふろに入れば、今日はちゃんと、終わるはずだったのに。
「ただいま」
帰って来たのは、お父さんと弟だけじゃ、なかった。
「こんばんは、すずちゃん」
ゆりさんが、お父さんの後ろから顔を出した。
なんで。
なんで、昨日も来て、今日も来たの。
ちくん。
また、むねが、さされる音がした。
「ゆりさん。こんばんは」
わたしはにっこり笑って、ゆりさんから、あたたかくて、良い香りのするちいさな紙袋を受け取った。
「お父さんからカレーって聞いて。コロッケ、会社の近くで買ってきたの」
おいしいって、有名なところなのよ。
あそこ、いつも行列だもんな。
お父さんとゆりさんが笑いながら話す。
ちくん。
知らない。
知らないよ、お父さん。
ちくん。
わたしの知らない、お店の話なんかしないで。
お母さんの知らない、お店の話なんか、しないで。
「早く作ろうよ。お腹ぺこぺこ」
わたしはまた、むしをした。
あの痛みにのまれては、だめ。
お父さんが、買ってきた野菜をあらって、皮をむいていく。
わたしはその間、洗たく物をたたむはずだった。
「わたしがたたむから、すずちゃんは自分の好きなことしていてね」
ゆりさんが、さっきわたしが取りこんだ洗たく物の前に、せいざした。
アイロンをかけるものと、かけないもの。
しわになるものと、ならないもの。
手際よく、分けていく。
わたしよりも、早く、上手に。
ちくん。
止めて。
だれか、この痛みを止めて。
「ゆりさん、お母さんみたい」
弟が、洗たく物をたたむ、ゆりさんを見て言った。
どきん。
痛みが、とうとう、わたしの心ぞうを、つかんだ。
「お母さん」
どきん。
ゆりさんがいっしゅん、目を見開いた。
キッチンから、お父さんがこっちに顔を向けたのが、目のはしにうつった。
弟が、うれしそうに笑った。
分かるよ。
分かる。
お母さんは、ああやって、せいざして、たたんでたよね。
洗たく物は、お母さんの手の中でくるくると、まるでまほうみたいに。
ちいさくて、きれいな四角形になっていって。
今のゆりさんといっしょだね。
どきん。
でも。
どきん。
お母さんはどうなるの。
どきん。
ひとりで、向こうにいった、お母さんが。
どきん。
かわいそうで、わたしは。
弟をたたいた手の平は、とうに痛みは去ったはずなのに。
まだ熱をおびているかのように、熱くて、ひどく重かった。
……はあ、はあ。
一気に走りすぎて、のどが苦しい。
むねがつまって、うまく息ができなかった。
目の前がくらくらして、しゃがみこむ。
すぐ先には、外灯に照らされた校門が見えた。
昼間は開いている門が、今は格子状の、黒くて大きいフェンスの扉で、固くとざされていた。
誰もいない。
夜の学校はいつもよりつめたい顔で、むっつりと黙ったまま、こちらを見ていた。
こわい。
とりあえず、帰ろう。
そう思って、立ち上がったその時だった。
外灯の下で、黒いかげがゆらりと動いた。
灰色の帽子。
あの人は。
公園にいた。
体に流れる血が、一気に逆流するような気がした。
逃げなきゃ。
なのに、足がこおりついたように動かない。
その人が、帽子の下で、口の端を上げて笑ったのが見えた。
背中の後ろから、ぬらりと光る包丁が出てきて。
切っ先を、ゆらゆらゆらしながら、近づいてくる。
だめだ。
怖い。動けない。
ぎゅっと目をつむった。
まぶたに、お父さんと、弟の顔がうかんだ。
そして。
椿さんの、きれいな横顔。
まよけの、お守り。
わたしははっとして、ポケットに手を伸ばした。
あの時、椿さんからもらった鈴。
コートのポケットに入れたまま。
ちりん。
ポケットの中で、指がふれたそれが、ちいさく鳴った。
男の人が何かに気づいたように、止まった。
鈴をしっかりにぎって、ポケットから取り出す。
そのまま、上下にうでごと大きくふって、思いきり鈴を鳴らす。
「椿さん!」
そのしゅんかん、わたしの後ろから、大きな白いおおかみが現れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます