第19話 名前⑬完結

病院から駅まで伸びる並木道を、一人の男が歩いていた。


男のすこし先には、仲良く手を繋いて歩く、夫婦の姿があった。


男は途中で立ち止まり、しばらくふたりの姿を眺めていたが。

ふと隣の銀杏の木を見上げて、声を掛けた。


「お疲れ様」


「烏丸!」


銀杏の木の枝から、赤狐が顔を出した。


「だから……せめて呼び捨ては」


うんざりとした顔で、烏丸は目を瞑る。


はいはーい、と、赤狐はいつもの軽い調子で返すと、ひらりと身体を回転させて、烏丸の前に降り立った。


「見に来てくれたんですねー!」


やっさしーい! と茶化す赤狐を適当にあしらって。

烏丸はコートの胸ポケットから、黒の万年筆と、和綴じの小さな古い手帳を取り出した。


表紙には達筆な字で、『四ノ隊 隊員記録』と、したためられている。


烏丸は慣れた手つきで手帳を開くと、その紙面に何やら書き付け始めた。


「相変わらず、筆じゃないと下手な字ですねー」


そう言って後ろから覗き込んだ赤狐を、文字通り一蹴り入れて、一蹴する。


「うおっいってー! おお、こわ」


触らぬ烏に祟りなし……と言って、赤狐が足をさする。


一向に口の減らない赤狐に無視を決め込んで、烏丸は目にも止まらぬ速さで筆を走らせていく。


その隣でひとしきり足を擦り終えてから、赤狐は視線を元に戻した。


手を繋いで歩くふたりは、ゆっくりと並木道を進んでいく。


その姿を見ながら赤狐は驚いたように、でもどこか嬉しそうに、呟いた。


「まさか、俺の名前をつけてもらえるなんてねー」


あれから、一年が過ぎようとしていた。


人の時の流れは、驚くほど早い。

あの日から、まだ十日も経っていないように思うのに。


そんなことを思いながら見守っていたふたりの姿は、すっかりちいさくなっていた。


随分と、遠くへと行ってしまったな。


赤狐がぼんやり眺めていると、それまで絶え間なくカリカリと、小気味よく流れていた書き音が止んだ。


「お前は。不用意に、自分の名前を明かしすぎだ」


烏丸は書き終えたのか、ぱたんと手帳を閉じると、万年筆と一緒に、再びコートのポケットに仕舞う。


「なんでだよー。烏丸だって、大っぴらにしてるでしょ」


お前とは格が違う、と烏丸がつめたく言い放つ。


ひっでー! と赤狐が口を尖らせた。


烏丸が、いつになく、真面目な顔になる。


まことの名は、守りにもなるが、時に弱みにもなる。俺たちは隠仁おにからしたら邪魔な存在だ。それを忘れるな」


だからこれからも、必要な時には俺の名前を使え、と、烏丸は続けた。


「……気に入ってるんだ。烏丸にもらった、この名前が」


赤狐は呟くように言った。


「俺が昔、隠仁に付け入られて、妖狐として生きていた時に救い上げてくれた名だから」


烏丸はしばらく黙っていたが、不意に、その口許を緩めた。


「まあ。今回の一連の結果は、お前のお手柄だな。本当に、よくやった。依頼人が生まれる前の赤子で、だいぶ苦戦もしていたようだが」


「それはほんとに! あんなに、ちっちゃくて若い子初めてで。最初、何言ってんのか全然わかんなかったし。ほんと苦労したー!」


赤狐が大袈裟に肩をすくめる。


「若い子って……。まあ、それはそうだが」


でも、と赤狐は言葉を続けた。


「あの子が伝えたかったこと。本当に、何の混じりけもない、あの人への感謝だけだった。ただひたすら、純粋に伝えたかったんだ。ありがとうって。

あの時、海も力を貸してくれた気がする」


ふわりと潮の香りがしたような気がして、赤狐は鼻を上へ向けた。


烏丸は黙って、その姿を見守る。


ふと、赤狐の体が白い光に包まれた。


「え……? これって」


「迎えが来たな」


慌てる赤狐と対照的に、落ち着きを払った烏丸が淡々と告げる。


「心配するな、行先は伏見だ。大御所中の大御所だぞ、失礼のないようにしろよ」


口から先に生まれてきたようなお前だから。他の眷属の奴らとうまくやっていけるか、正直心配だが……と、焦る赤狐を横目に、烏丸が独りごちる。


「ええ!? なんで今!? なんで俺!?」


その光は徐々に強さを増して、赤狐の体をすこしずつ浮かび上がらせていく。


「他にもっといるでしょ。ほら、あの真面目で、お堅い、鉄面皮の。狼さんとか!」


赤狐は叫びながら、手足をばたつかせる。


「……お前、後半ただの悪口だったぞ」


烏丸が呆れたように、赤狐を見やる。


「嫌だよ、だって俺、まだ烏丸と」


烏丸が、ゆっくりと赤狐を見上げる。


「お前は十分徳を積んだ。

これまで長きに渡って、依頼人の願いを叶え続けた。最後には、新たな命をも繋いだんだ。そんなお前を、稲荷の総本山が、眷属に加えてやってもいいと仰せだ。これに勝る誉れはないだろう」


赤狐は、がっくりと首をうなだれた。


「俺、伏見とか、そんなでっかいとこ。絶対向いてないと思うんですけど……」


今にも消え入りそうな声で、赤狐が弱々しく呟く。


「まったく。華々しく栄転していく奴の顔とは思えんな」


烏丸は溜息をつくと、ぐっとその背を伸ばして、赤狐の頭を乱暴に撫でた。


「茜。どこへ行っても、会えなくなっても。お前はこれからも大切な仲間で、俺の弟だ」


赤茶色の瞳が揺れて、茜の中の烏丸の姿が滲んだ。

光の中で、茜は、狐の姿に戻っていた。


瞳と同じ色の、ふさふさとした尾が揺れる。

茜がちいさく啼いた。


しょうがねぇな、と烏丸は呟くと、パンツのポケットから、濡羽色の御門鑑おもんかんを取り出した。

ぎゅっと握り、思いっきり振りかぶる。


烏丸は、すっかり上へと浮かび上がった光の中に、それを投げ入れた。


光の中で、茜が大きく口を開けて、御門鑑を受け止めたのが見えた。


浮かび上がった光が、西から差す陽の光と溶け合う。


今日の茜空は、きっと、あの都まで続いているのだろう。


からん。


空から乾いた音を立てて、一つの木札が降ってきた。

拾い上げて、その印を確かめる。


木札には、烏丸のものと同じく〈冥府めいふ 御門鑑おもんかん〉と。

そして、裏には〈黒母衣衆くろほろしゅう 四ノ隊 赤狐〉と、焼き印が押されていた。


行ったか。


さっきまでは、自分の御門鑑が入っていたパンツのポケットに、今度は赤狐のそれを、静かに仕舞う。


「あの時の、狐の子か」


後ろから声を掛けられて、烏丸は振り返った。


「姉さん」


そこには、銀鼠色に輝く長髪を一つに束ねた、一人の背の高い女性が立っていた。


黒い隊袴の上には、黒よりさらに深く、青みがかった濡羽色の母衣を纏っている。


母衣の下から覗く腰元には、二振りの刀と、古めかしい木札が覗いていた。


黒く染め上げられたそれには、〈黒母衣衆 弐ノ隊 真魚まお〉と焼印が押してある。


「隠仁退治の、帰りでしたか」


真魚はうなずくと、髪と同じ銀色の目を細めて、烏丸を見やった。


「だいぶ、あの狐の子を可愛がっておったろう。寂しくなったな」


「……こちらの時でいえば、二百年近く。共におりました。もう十分、眷属としてやっていけるでしょう」


まあ、あいつのことだから。向こうでも長く修行を積むと思いますが、と忘れず付け加える。


「もう、そんな前になるのか。あの子を斬ろうとしたみなもとの太刀を、お前の御門鑑が弾き飛ばしたのは」


烏丸が無言で、頭を下げた。


「今思えば、なかなか見ものだったな」


つんと通った鼻筋に軽く皴を寄せて、くくっと笑う。


「四ノ隊の仕事も、性に合っているのだろうが」


真魚は、烏丸に、その美しい顔をずいと近づけた。


「相、変わらず。お主が弐ノ隊へ帰ってくるのを待っておるぞ。源も、皆も。私もな」


烏丸は改めて、深々と頭を下げた。


すっと烏丸から身を離すと、真魚は母衣を翻した。


「またな、烏丸」


そう言い残して、真魚は立ち並ぶ銀杏の間へと、姿を消した。


一人、残された烏丸は、大きく息を吐く。


「……久しぶりに、めちゃくちゃ、肝が冷えた」


烏丸は、そして、果たして何度目になるのか、またもや御門鑑を手放してしまったことに気づいたのだった。

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