第18話 名前⑫

「妊娠の、陽性反応がありますね」


ダウンライトの、柔らかな明かりに照らされた診察室は、白くて清潔で、まるで繭の中にいるような心地がした。


歳の頃は、田舎の父親くらいだろうか。

落ち着いた物腰の、初老の医師が、私に向かって静かに微笑んでいた。


「……やったああああ!」


たっぷり一拍置いて、大きな声が上がる。


びっくりして隣に目を向ければ、夫が目をうるませながら、嬉しそうに顔をしわくちゃにしていた。


ご主人、お気持ちは分かりますが、すこし抑えて……。

医師が、苦笑しながら声を掛ける。


夫は、す、すみませんとすぐに縮こまって、ばつが悪そうに私を見た。


私が思わず吹き出すと、夫も照れたように笑った。


医師は丁寧に、今のからだの状態や、これからの流れを説明してくれた。


次の予約を取って、ふたりで診察室を出る。


外の椅子には沢山の人達が座っていて、名前を呼ばれるのを、今か今かと待ち侘びていた。


マタニティウェアに身を包んだ、お腹の大きい女性もいれば、スーツ姿の女性、自分達と同じように、夫婦で寄り添いながら待っている姿もあった。


おそらく、先程の夫の声が皆に聞こえていたに違いない。


なんとなく、周りからあたたかくて、柔らかな視線を感じる。


夫と、顔を見合わせる。


ふたりとも気を抜くと、つい笑ってしまいそうになるものだから。


必死に澄ました顔を作って、何とか会計を済ませる。


ダウンを着て外に出ると、思わず、ふーっと大きく息がでた。


「……あはははは!」


「あははは!」


私が笑うと、彼も笑い出した。


「いきなり。あんな、大声出すなんて。診察室で」


「だって、嬉しくて。思わず、出ちゃったよ」


家でやった妊娠検査薬で、ほとんど結果分かってたはずなのにね。

そう言って、大きく笑う夫の目じりが、きらっと光った。


それを見て、嬉しくて、またやさしい気持ちがからだの中から溢れてくる。


思わず彼の手を取る。


夫の手はあたたかくて、体温の低い私の手を、いつもあたためてくれる。

一年程前に仕事を介して出会った彼と、私はこの前籍を入れたばかりだった。


そのまま手を繋いで、二人で駅までの並木道を歩く。


「あのね、とても、気の早い話なんだけど」


私は夫の方を向いた。


「赤ちゃんが来てくれたら。ずっと、つけたかった名前があって」

聞いてくれる? と夫を見つめる。


「おっ、いいね。何て名前?」


彼が私を覗き込んだ。


「茜」


口から零れ出たその名前が、私の中でやさしく、こだまする。


「いつか見た、空の色が忘れられないの。あの日は確か、朝焼けだったはずなのに。変だよね。なぜか思い浮かぶのは、茜色の、空で」


「いい名前だね。今のこの空も、茜色だ」


夫が、前を指さした。


目を向けると、いつの間にか陽はゆっくりと傾いていて。


柔らかな橙色だいだいいろと、薄いピンク色が溶け合った夕焼けが、静かに広がっていた。


こんな空のように。


「誰かを、やさしく包めるような人になってほしいな。一緒にいる人が、自然と笑顔になってしまうような」


夫が頷いて、微笑んだ。

ぎゅっと、繋いだ手を握り締める。


たとえ、遠く離れることがあっても。

私はずっとこの子を、見守ってあげたい。


こんな、茜色の、空のように。

自分がいつか、そうしてもらったように。

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