第17話 名前⑪
ゆっくりと、ドアの内側についたハンドルを回して、車の窓を開ける。
遠くに、潮の香りがした。
茜が乗ってきたのは、古いパジェロだった。
車高が高く、大きな車体を持つパジェロは、雪道でも危なげなく走っている。
「もうすぐだよ」
車のハンドルを握る茜が、遠くに目をやる。
窓からは吹き込んでくる空気には、まだ仄かに残った夜の余韻と、これから始まる朝の予感が入り混じっていた。
「あっ。見えた、海」
思わず声をあげる。
「いいねー、冬の海も」
茜も、楽しそうに声を弾ませた。
車を近くの海浜公園の駐車場に停めて、二人で歩きながら海へと向かう。
携帯を、ダウンのポケットから取り出す。
六時二一分。
日の出までは、あと、二十分以上あった。
私のすこし前を、茜が歩く。
オーバーサイズのグレイのコート。
くるぶし丈のキャメルのチノパン。
そして。
「靴。黒にしたのね」
茜が振り返る。
「もちろん。そして、あなた様の仰せの通り、ほら。ブーツにしてきましたよー」
茜は腰に手を当てて、ブーツのつま先を上に向けながら、おどけたポーズを決める。
「何その恰好」
思わず吹き出すと、茜も笑った。
ふたりでふざけながら向かううちに、砂浜へと着く。
「寒いね」
私が手を擦り合わせると、はい、と茜は、自分のコートのポケットからホッカイロを手渡してくれた。
「……ありがとう。茜は、女の子にもてるでしょう」
そう言うと、茜はそんなことないよ、すこし照れたように下を向いた。
一瞬、彼の腰のあたりから、赤茶色のふさふさしたものが見えたような気がしたが、それはすぐに消えてしまった。
「座ろっか」
茜の声に引き戻される。
黙って頷いて、彼の隣に座る。
浜辺には、誰もいなかった。
あの日も、こんな冬の海で。
あの日も、誰もいなかった。
……いや、違う。
今日は、茜がいる。
隣に座った茜は、まっすぐ海を見ていた。
そのひたむきな眼差しに、なんとなく声を掛けられなくて、私もじっと前を見ていた。
「ありがとう」
茜が口を開いた。
「えっ?」
隣に座っている彼に、顔を向ける。
「あれ、何言ってんだ、俺」
茜も不思議そうに、首を傾げる。
「なんか、いつの間にか言葉に出てた」
「変なの。ここまで連れて来てもらって、お礼を言うのはこっちなのに」
思わず笑うと、彼も微笑んだ。
「あっ見て。空の色が変わってきた」
私が茜のコートを引っ張る。
太陽がすこしずつ昇ってきているのだろう。
いつの間にか、空は、夜から朝へと静かに移ろっていた。
海との狭間で、深い青から薄い
「こんなに、綺麗だったのね」
あの時は俯いていたから。
気づけなかった。
すこしずつ、青の中に橙色が滲んで、濃さを増していく。
誰かが明かりを灯したような、ちいさくも、まばゆい光が顔を出した。
光は、みるみるうちに大きくなっていく。
水面に、陽の光が伸び始めた。
海は、今日も穏やかだった。
大きく、波を立てることもなく。
ただ静かに陽に照らされて、そこに在った。
「……凪」
自然と、零れ出たそれは。
「ありがとう」
彼はやさしく微笑んで、私の方を見ていた。
「あの時、名前を、つけてくれて。呼んでくれて、ありがとう」
「あなたは……」
「ずっと、お礼が言いたかった。でも、もうすぐ、もっと上にいってしまうから」
彼は、空を見上げた。
「名前はね。あっちでも、ずっと持っていけるんだよ。それが、進んでいく支えになって。目じるしになってくれるんだ」
「私、ごめんなさい。あなたを」
彼の姿が滲んで、見えなくなる。
まばたきをすれば、熱い雫が頬を伝った。
彼は微笑んだまま、静かに首を振った。
「こんな海のように。凪の海のように、穏やかでいてくれるようにって。願いを込めてくれた」
彼が、そっと私の頬を拭う。
「……もっと。話せば良かったんだわ、あの人と。私が思っていたこと、願っていたこと、全部」
怖かった。
私以外に、私以上に、もっと苦しんで、もっと悲しんでいる人は、沢山いるのだから。
自覚したのは、たった、一時間ほどだった。
それなのになぜ。
私はこんなに傷ついているの。
どうして、こんなに時が経っても、私は。
きっと、分かってもらえないだろうと、一人背負いこんで、何とかしようとしていた。
仕事に没頭することで、なるべく考えないようにして。
あの人とも距離を置いて。
ふたりで描く未来を、自分から消していってしまった。
でも。
この、私の思いは、願いは。
消えることなくずっと、ここにあった。
「ありがとう」
凪はそう言って、私をやさしく包んだ。
溢れ出た光は、いつの間にか太陽となっていて。
空を、薄いピンク色に染め上げていた。
行ってしまうのね。
「忘れたくない。茜のこと」
茜はそっと、私から体を離すと、その赤茶色の瞳で私を覗き込んだ。
「君が忘れても。俺が、全部覚えてるから」
そう言って微笑む茜を、ずるいと思った。
「私、忘れないわ。あなたのこと。ずっと、ずっと覚えている」
朝焼けに染まる空と海は、一日の始まりを讃えるかのように、柔らかく光り続けていた。
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