第16話 名前⑩
「君がまた行きたいなら、行ってみない? その海」
すっかり乾いた、黒のタートルネックのニットに腕を通しながら。
茜はまるで近所のコンビニに誘うかのような、軽い口ぶりで言った。
「行くって言っても……」
ニットを被ってくしゃくしゃになった頭をふるりと震わせると、茜は、テーブルに置かれたマグカップを持ち上げた。
昼は珈琲を淹れていたマグには、今は、はちみつを垂らしたホットミルクが入っていた。
茜は立ったままで、また一口、美味しそうに飲む。
話しているうちに、それは、彼にとって丁度良い温度になったようだった。
片手でマグを持ちながら、その隣に置いてあった写真を手に取る。
「聞いたら、ここからそう遠くない場所だしさ。怪我させておいて電車でっていうのもなんだし、俺、車出すよ」
「あなた、運転できるの?」
驚いて茜を見つめる。
免許、どうやって取ったのだろう。
「その顔は。疑ってるな? こう見えても、運転歴は長いよー。意外と上手いねって言われるし」
茜はすこし不満げに口を曲げたが、まあ意外とって付けられている時点であれだよね、とすぐに笑った。
「あっ雪道も、もちろん大丈夫だよー。まあ、自分が滑ってたら世話ないんだけどね」
私が疑問に思ったのはそこじゃないんだけどな、と思いながらも。
そもそも車はどうするの? と、尋ねる。
携帯を見れば、もう二三時に近かった。
この辺りのレンタカー店といったら駅の近くか、もしくはカーシェアリングを探すしかない。
「ああ。向こうで手配してくるから、大丈夫」
「……向こうって?」
一体、どこなのだろう。
まさか、変な乗り物、化け物でも出てきたらどうしよう。
不安が、顔から激しく漏れ出ていたのだろう。
茜が慌てるようにして、言葉を続けた。
「いたって、普通の、車だよ! 烏丸ので、古いんだけど。ちゃんと手入れされてるから」
だから安心して、と、茜は必死に説明する。
まあ、大丈夫か。
若干、彼の勢いに気圧されてしまった感があるが。
茜の一生懸命な姿を見ているうちに、抱いた不安はちいさくなっていった。
「せっかくだから、この時間帯にあわせて行かない?」
茜は持っていた写真を、そっと私に手渡す。
「明日は仕事に行くんだよね? 朝、そのまま送っていくよ」
余裕を持って、朝の五時過ぎには迎えに来るという。
「それはとても有難いけど。茜は、大丈夫なの。これからまた向こう? に行くんでしょう?」
ちゃんと、夜、あなたは休めるの、と尋ねる。
椅子に掛けていたコートに手を伸ばしていた彼は、ふとその手を止めて、私を見た。
「君は、やさしいね」
思いがけない言葉に思わず、私も、茜を見つめなおす。
「……君はさっき、自分のことしか考えていない、つめたい人間だって言ってたけど。前の旦那さんだって、きっと、そんな風には思っていなかったんじゃないかなあ」
彼がその目を細めて、微笑んだ。
「その人と何があったのか、俺はよく知らない。でも、こうやって俺のことを気遣ってくれる君は、やさしい人だと思う」
そう言うと茜はコートを羽織り、マグに残ったミルクを飲み干した。
何も言えずに黙ったままの私に、すこしかがんで、目線を合わせる。
「ごちそうさまでした。明日は早いから、今日はもう休んでね」
おやすみ、と言うと、彼は部屋を出ていった。
静かに玄関のドアが閉まる音がする。
部屋にはまだ、ミルクとはちみつのやさしい香りが漂っていて、一人になった私を包んでいた。
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