第15話 名前⑨
あの日も、寒い朝だった。
窓の外はまだ暗くて、深い闇が広がっていた。
昨日はよく眠れなかった。
眠りが浅くて、たくさんの夢の中を漂い続けていた気がする。
まだ、隣のベッドで寝ている夫を起こさないように、軽く身支度を整えて、そっと部屋を出た。
しんと静まり返った廊下を歩いて、エレベーターで一階まで降りる。
フロントには誰もいなかった。
泊まっていたホテルは、海辺まで歩いてすぐのところにあった。
羽織ったダウンコートのファスナーを首までしっかり上げて、ホテルを出る。
空気がきりりとつめたい。
吐いた息が白く舞った。
手袋を持ってこなかったのを後悔しながら、ポケットに手を入れる。
潮の香りがする。
浜辺までは、舗装された道が続いていて、迷うことはなかった。
ものの一分も歩けば、砂浜に出た。
ポケットから出した携帯を見る。
六時十六分。
あと、五分もすれば日の出だ。
私は、誰もいない朝の砂浜に腰をかけた。
あの日から、早くも半年が経とうとしていた。
お腹にいたのは、たったの数週間程であったらしい。
二回目の検査の後、再び診察室に呼ばれて、私はまたあの女性の医師と向き合っていた。
淡々と落ち着いた声音の中には、ほんのすこし、彼女の感情が滲んでいて。
それで、私は初めて、自分が悲しんで良いのだと思えた。
自覚をしたのは、ほんの、一時間ほどだった。
そんな短い時間で、自分が母親として悲しむなど、おこがましい気がしていた。
とてもちいさかったから、自然に流れて、いったのだと。
出血は、もうしばらく経てば止まる。
今の私の体にも、特段何かする必要はないから、処方する鉄剤を飲んで様子見てください、と医師は言った。
あれから、どうやって家に帰ったのか、あまりよく覚えていない。
とりあえず、仕事は休んで、家に戻ってベッドに潜り込んだ。
自分でもよく分からない感情がたくさん出てきて。
悲しいのか、辛いのか。
ひとまず病気でなくて、安堵したのか。
なんだかよく、わからなかった。
夫も、まさか子どもができていたとは思っていなかったらしい。
何と言葉を掛けていいのか分からない様子で、ただ私の話を黙って、頷きながら聞いていた。
もう、半年も経つのに。
この気持ちは何なのだろう。
たった、一ヶ月だった。
お腹にいたのはもっと短い。
自覚したのは、もっともっと、短い。
それなのに。
なぜ私は。
腕の中に顔を
似たような経験をしている人たちはたくさん、いる。
私だけじゃない。
私なんかより、もっと長い期間一緒にいて、さよならをした人だっているのに。
夫だって、戸惑っている。
そもそも最初から望んでも、期待してもいなかったはずなのに、どうして?
私は。
その時、海と空の境目から、こぼれるように光が溢れ出して、うつむく私にもそれは届いた。
ふと、頭を上げる。
まばゆい光はゆっくりと大きくなって、海を、私を照らしていく。
新しい日を迎えた海は、とても穏やかだった。
携帯のカメラを開く。
こんな海のように。
目の前が、ぼやけた。
頬を流れ落ちればそれは、このつめたい空気の下ではすぐに凍てついてしまうように思えた。
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