第14話 名前⑧
部屋に掛けてある、茜の黒いタートルネックのニットが、暖房の風でゆらゆらと揺れている。
茜はつい先程、
出掛けてくるね!
夜の、十時頃には戻りまーす!
と、ニットが乾かないうちに、薄手の長袖のTシャツの上にコートを羽織っただけで、勢いよく出ていってしまった。
風邪を引いたらどうするのと呼び止める私に、自分は暑がりだからこのくらいで丁度だと、鉄砲玉のように飛び出していった。
正直、まだ彼が、狐だと信じている訳ではなかったが。
茜の掴みどころのなさというか、こちらに警戒心を抱かせない無邪気さ、無垢さのようなものは、些か人間離れしたものを感じさせる。
昨日の午後から私の家に上がり込み、そのまま当然のように居ついている彼だが、夜はソファで休んだようだった。
茜がいなくなって、急にがらんと静まり返ったリビング。
こんなに早く、この家に客が来ると思わなかった。
まだ、引っ越してきて十日ほどしか経っていない。
部屋の隅に目をやれば、そこには未だ積まれたままの、白い段ボールがいくつかあった。
昨日の夜、慌ててその一つから来客用の布団を引っ張り出して、また一箱、減ったところだ。
せっかく休みを取っていることだし、茜が帰ってくるまでに、この勢いで片してしまうか。
小さく息を吐いて髪を束ね、軍手をはめて取り掛かる。
上から順にガムテープをはがし、一つ一つ中のものを取り出していく。
残っていたのは、前の家のリビングの収納棚に仕舞っていた書類関係だった。
以前、暮らしていたファミリータイプのマンションと比べると、今回の家は大分手狭にはなったものの。
それでも一人で暮らすには十分な広さだった。
引っ越しを機に買った新しい本棚に、書類の入ったボックスを手際よく入れていく。
ふと気づけば、あと残り一箱だった。
もう少し。
そろそろ首と肩が痛くなってきたところだったが、自分で自分を励ましながら、最後の段ボールのガムテープをはがしていく。
「あっ」
開けて、思わず声が出た。
そこに入っていたのは、細々した小物と、一冊のアルバムだった。
これ、捨ててこなかったんだっけ……。
引っ越しの荷造りの際に、元夫との写真はすべて処分してきたはずだった。
今回は引っ越し会社のスタッフに荷造りも手伝ってもらったのだが、そこで紛れてしまったのだろうか。
しょうがない、捨てよう。
溜息をついてアルバムに手を伸ばし、箱から取り上げたその時だった。
一枚の写真が、はらりと落ちた。
手を伸ばして見てみると、それは海の写真だった。
朝焼けの、薄いピンク色の空の下で、穏やかな水面を湛えた海が映っている。
凪の、海。
私はしばらく、その写真を見つめたまま、動けずにいた。
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