第12話 名前⑥

俺、狐なんですー。


昨日の朝。

タクシーが来るまで、私を駅のベンチに座らせながら茜は、事もなげに言った。


えっ?


温かいお茶を、彼が駅のキオスクから買ってきてくれた時だった。


はい、と、ごく自然な素振りでペットボトルを渡されながら、私は、呆気に取られていた。


今。きつねって、言った? この人。


呆けたように見つめる私を気にも留めず、茜はビニール袋をがさがさと鳴らしながら、言葉を続ける。


あっでも、もう今は人を化かすとか、騙すことはしてないんで。安心してください。


もう? 今は? 化かす? 騙す……?


頭の上に、はてなマークが幾つも浮かぶ。

 

これ、ほっかいろです。

前に、寒い日に人間はこれを持つとあったかいんだよって教えてもらったことがあって。

どうぞー。


茜から受け取ったホッカイロは、普段自分で買うものよりも大きくて。

これは低温やけどに気をつけないと、とそんな、間の抜けたことを思った。


ベンチの隣に立つ茜が、まだかな、と首を伸ばす。

コートのポケットに手を突っ込みながら、駅から見える大通りへと二、三歩、足を進めた。


彼の頭のてっぺんから、足の先まで、その全身に目を走らせる。


オーバーサイズのグレイのコート。

くるぶし丈のキャメルのチノパンからは、黒の靴下が覗いている。


件のスニーカーは、こうしてみると、なかなかしっくりと彼におさまっていた。


すらりと伸びた、そのバランスの良い身体の腰の辺りに、思わず、目を凝らす。

当然の如く? 獣の尾のようなものは、見当たらなかった。


……仮に、あなたが、狐だったとして。


私は、大通りを眺める茜の背中に、言葉を掛けた。

彼が振り返る。

 

正直私には、人間の、男の人にしか見えないけれど。

そんな大事なこと、初対面の人間に、言ってしまって良いの……?


すると彼はその目を細めて、人懐っこく笑った。


そしてまた、信じられないようなことを、さらりと言ってのけた。


大丈夫です。

皆、俺のことは、忘れてしまうから。

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