第11話 名前⑤

「だって、こっちではあれが人気だって。店員が言うからさ」


茜は、自分こそが被害者だと言わんばかりに、悲痛な声を上げた。

縋るような目で私を見つめる。


眉はハの字に、口はへの字に曲げた彼を見て、茜は本当に素直な表情かおをするものだと、妙なところで感心してしまう。


私は静かに溜息をついて、珈琲を淹れた白いマグカップを彼の前に置いた。


「熱いから、気を付けて飲むのよ」


ありがと……ございます。

茜は消え入りそうな声で礼を言うと、そっと珈琲を手に取る。


私の手には余る重たいマグは、彼の大きな手によく馴染んでいた。


テーブルを挟んで、私も彼の向かいの椅子に座る。


幸いなことに痛めた右の足首は、軽い捻挫で済んだ。

病院からもらった湿布を貼れば、痛みは大分和らいでいる。


「あちち。そういえば俺、猫舌だったー!」


やけど、してない?

先程までのしょげた顔から一変、彼はけろりとした様子で、小さく舌を出して私にみせてくる。


最早数えてもいないのだが、果たして、もう何度目だろうか。


茜と話していると、力が抜ける。

自分の体から、ぷしゅーと気の抜けた音が聞こえてくるかのようだ。


「だから、気を付けてと。言ったでしょう」


はーいと緩く返事をして、茜がふーっと、珈琲に息を吹きかける。

それを横目で見ながら、私も自分の珈琲に口をつけた。


今日も変わらず、東京は銀世界だった。


昨日より些か、勢いは落ちているのだろうか。

窓から見える雪は降るというよりも、ふわふわと舞っているように思えた。


静かだ。


音がすべて、雪に吸い込まれていく。


こうしていると、タクシーで茜と病院へ向かった昨日が、遠い日のことのように思える。


遅い朝食を先程、茜と終えたばかりだった


仕事は、雪と怪我を理由にして、昨日から今日にかけて有休を取っていた。


トースターで焼いたパンとシーザーサラダに、ミネストローネ。

久しぶりに食べると美味いですねー!と、茜は嬉しそうに次々と平らげて、ミネストローネはしっかりおかわりもした。


そんな茜につられて、自分もいつもより食べ過ぎたように思う。


膨らんだお腹は若干苦しかったが、昼と兼ねたと思えば丁度良い。


キッチンには、小さな冷蔵庫に入りきらずに積まれた、食材や、飲み物があった。


昨日の病院の帰り、スーパーとパン屋に寄り、文字通り山のように、彼に買ってもらったのだ。

三日は、余裕で持つだろう。


「俺が悪かったのは、百も承知で言わせてもらうんですが。あの時はめっちゃ吃驚したなあ」


珈琲は程よく冷めたのか。

茜は一口飲んでから、思い出すように軽く目を閉じる。


「怖かったー。初めはまさか、君から出た言葉だと思わなかったし」


こっちで言う、見た目とのぎゃっぷ、ありすぎって奴ですよねーと、言いながら、その赤茶色の目を開いた。

まるで、悪戯っ子のように笑って、私を見ている。


「……雪の日に、あの靴は。自分から滑りにいくようなものです。しかも白ときた」


馬鹿なの? と、努めて綺麗な標準語で返すと、茜はひっでーーー! と小さく叫び声を上げた。


「雪は意外と汚れているから。白なんて、すぐに染みになるでしょ」


「ふうん。今まで、そんなの気にしたことなかったなあ」


茜は首をかしげる。


「そういえば……この姿で雪の中を駆けたのも、久しぶりだったっけ」


茜はぼんやり遠くを見るような目をしたかと思うと、なるほど! と大きな声を上げた。

合点がいったような様子で、私を見つめる。


「何。いきなり、どうしたの」


「やっと、色々、腑に落ちました。

君の昨日の格好も。それで全身、真っ黒だったんだー。それもあって、なんだか烏丸みたいだなって思ったんだ」


俺にはちょっと、いや大分、つめたいところも似てますけどね……と、ぼやく茜を、はいはいとあしらいながら尋ねる。


「カラスマって?」


茜もそうだが、随分と雅な名前だ。

苗字なのだろうか。


「俺の上司。っていうか、兄、親みたいな? 烏に丸って書くんですけど」


無邪気に笑って応える彼を見ながら、頭の端で思う。

茜は、その烏丸とやらがきっと、とても好きなのだろう。


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