第10話 名前④
駅に着いた頃には、手袋をしていた手も、ブーツの中の足もかじかんで、すっかり冷え切ってしまっていた。
感覚の鈍くなった両手を擦り合わせ、傘を細かく震わせながら、積もった雪を払っては閉じる。
改札前の電光掲示板には、積雪の影響による電車の遅延を知らせる文字が、無慈悲に流れていた。
今日は、大事な商談がある日なのに。
唇を噛む。
よりによって、こんな日に降らなくても。
本当は好きなはずの雪なのに。
今は冷酷に自分を追い詰めてくるようで、いまいましく思った、その時だった。
ぶうん、ぶうん。
コートのポケットから小刻みに振動が伝わってくる。
嫌な予感がした。
一瞬、見たくないと思ったが。
すっかり骨身に染み入った営業の癖で、手が無機質に、ポケットに伸びる。
案の定。
携帯を開き、溜息が出る。
リスケのメールだ。
商談の相手は、この雪の影響で出社が無くなり、今日は会えなくなったという。
保険営業で、アポイントのリスケは時に致命的になるほど、痛い。
ただでさえ、人にとって、保険の検討は優先順位が下がりがちだ。
皆、できることなら保険など使わない人生を送りたい。
保険会社で働いている自分だってそう思うのだから、その気持ちは痛いほど分かる。
人生において、家の次に高い買い物だと言われるものを、売っている。
そして、家とは違って目にはみえず、手に取って触ることもできないものを。
一旦アポイントがキャンセルになれば、そのまま約束は流れ、次が無いことも珍しいことではなかった。
自分とある程度、人間関係ができている相手とのリスケは、そこまで致命的なものにはならない。
向こうも、保険商品そのものというよりも、自分というひとりの人間を信じて、時間を作ってくれることが多いからだ。
だからこそ相手との関係性が、まだそこまで構築出来ていない段階でのリスケは、避けたかった。
例え、今日のような大雪の日でさえも。
駅の改札は、来ない電車にしびれを切らして戻ってきた人と、一旦はホームまで向かおうとする人とでごった返していた。
雑然と、そしてどこか殺伐とした空気を漂わせた人波を避けるようにして、さっと壁際に身を寄せた。
バックから、手帳を取り出す。
この仕事は、他と比べてネガティヴなイメージを持たれやすい。
毎月のノルマがきつそうだよね。
契約が取れなければ、お給料もらえないんでしょう。
飛び込み営業、怖そう。
……等々。
挙げればいとも簡単に、どんどん出てくる。
そんなイメージを少しずつでも自分が変えていこうと、入社当時から青臭くも、決めていた。
どんな仕事でも、きついところはある。
それが見えにくい職種と、見えやすい職種があると思う。
保険営業は、後者だ。
もちろん苦しいこともあるが、自分には向いていたのだろう。
営業することは、楽しかった。
営業を通して、人と繋がっていくことが楽しい、と言う方が合っているのかもしれない。
一旦担当になれば、長きに渡ってフォローし続けられるというスタイルも、自分の性には合っていた。
それと同時に、離職率が決して低いとはいえないこの業界で、安定した成果を残し続けようとも思っていた。
だから、自分にとって周りの倍以上のアポイントを取り、量を確保することは必須で、当然で、そして自然なことだった。
次が、ありますように。
祈るような気持ちで、次回のアポイントの候補日を載せたメールを返す。
電車はまだ来ていなかった。
ふーっと大きく溜息をつく。
会社からは、大雪警報が出ていた昨日のうちに、無理をして出社をしないようにと通達が来ていた。
アポイントも流れたし、今日は、自宅に戻って仕事をするか。
またあの雪道を辿るのかと思うとうんざりしたが、しょうがない。
そうだ。駅の近くのパン屋で、好きなパンを買って帰ろう。
普段は体型を維持する為に、極力小麦粉は控えていたが、今日は解禁だ。
そう思って、駅を出て、傘を開こうとしたその時だった。
「わああああ」
雪道で足を滑らせたのだろうか、若い男が大胆に姿勢を崩して、こちらに向かって突っ込んできた。
思わず悲鳴を上げる。
男は勢いよくぶつかってきて、その上に自分が重なるような形で転んでしまう。
「ごごごごめんなさい!」
男はすぐに体を起こし、立ち上がった。
心底、申し訳なさそうに謝りながら、手を差し出してくる。
「本当すみません! 大丈夫ですか?」
……この男の声はよく響く。
周りから注目されているのを感じる。
自分は何も悪くない筈なのに、とてつもなく恥ずかしい。
一刻も早く、立ち去りたい。
差し出された手を無視して、無言でバックと傘を持ち直し、立とうとした。
「痛っ」
右足に鈍い痛みを感じた。
どうやら、捻ってしまったらしい。
「本当に、ごめんなさい。タクシー手配するんで、一緒に病院行きませんか?」
自分の方にそっと差し出された手の下に、男の足元が見えた。
スニーカー。
知っている。若者に人気の、白くて。
そのソールは、平たく、そして。
溝が、浅い。
「……こだ、ゆぎの日に、そだ靴履いてっからだ」
苛々が最大級に達していた。
座り込んだまま、思い切り、男を睨みつける。
「……え?」
男は、大きく目を見開いた。
やや釣り目がちの、色素の薄い、赤茶色のその瞳の中に。
今日び、最高に不機嫌な私が映っていた。
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