第9話 名前③

思えばその日は、朝からついていなかった。


東京は未明から降りしきる雪で、まるでスノードームの中のような、美しく閉ざされた、静寂の中にあった。


普段であれば、自転車に乗って向かう駅までの道は、ぶ厚い雪で覆われて、白く様変わりしていた。


自転車など走らせようものなら、一瞬で雪が車輪に詰まり、たちどころに使い物にならなくなるだろう。


観念して、マンションから足を踏み出す。


昨日の夜、段ボールから慌てて引っ張り出した冬用のブーツで、そろそろと歩く。


時折、跳ね上げてしまった冷たい雪の塊が、靴の中に入ってくるのが疎ましかった。


普段は十分も掛からない道のりなのに。


倍以上の時間を掛けながら、のろのろと駅まで向かう。


行く先にはちらほらと、この悪天候の中でも各々の会社へと向かうのであろう、見ず知らずの同志達の姿があった。


コートの襟を立てて、黙々とひたすら前に進む彼らの必死の行進に勇気づけられながら、自分も何とか足を踏み出す。


雪道を滑って転ばないために、踵からぎゅっと、雪にブーツのヒールを突き刺すようにして進む。


個人的には、靴裏が平たいものよりは、若干ヒールがあるものの方が転びにくいように思う。


蜂が針を刺すように、ヒールをぶすりと雪道に刺せば、踏ん張りを効かせながら、次の足を出せるからだ。


やっとの思いで大通りまで出ると、目深に差していた傘を上げて、駅までの道を注意深く見やった。


目の前には、偉大な先人たちによってある程度踏みしめられた道と、そのすぐ隣に、まだ誰も足を踏み入れていない、前人未到の細長い雪原が伸びていた。


踏みしめられた道は一見、歩きやすそうに思えるが。


足を取られやすい箇所では皆仲良く、揃えたように足を滑らせていくものだから、局所的に転びやすい状況が作られていることが多い。


左足は新雪に乗せて、右足はそのまま道に沿わせて。


新雪側に置いた足が、ふかふかとした雪と摩擦を起こして、ブレーキの役割を果たしてくれるのだ。


だが、東京の雪は、重い。


朝はふっくらと積もっていた新雪が、その日のうちにじゃりじゃりとした、ざらめ雪となってしまうことも多い。


東京では、雪が降れば傘を差すものだと、上京して初めて知った。


傘を差さずに歩こうものなら、早々にびっしょりと、全身が濡れたようになってしまう。


故郷の雪はもっと、さらさらと、軽かったように思う。


衣服や頭についた雪片は、振ったり払ったりすれば、素直にするすると、滑り落ちていった。


見上げると、仄暗い白を湛えた空は未だゆるむことなく、重たい雪を降らし続けていた。


咲き乱れた雪花が、静かに視界を遮っていく。


雪が降る前の空からはすこし、甘い匂いがしていた気がする。


それは例えていうならば甜瓜メロンのような、とても微かな、甘い香りで。


いつかの冬に、元夫にそんな話をした覚えがあったのだが。

彼の反応はいまひとつで、どうもぴんときていない様子だったことを思い出した。


この雪が降る前、その匂いはしなかった。


もう自分には、感じられなくなってしまったのだろうか。

そもそもそんな匂いなど、気のせいだったのか。


そんなことを思いながら、駅までの道を急ぐ。

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