第8話 名前②
「烏丸!」
杉の大木が左右に聳え立つ山道は、うっすら霧がかっていた。
その霧の中に、毬のように跳ねる声が背中に降ってきて、烏丸は思わず足を止めた。
声の主は、容易に思い当たる。
「せめて、呼び捨てはやめろ……。
烏丸が溜息をつきながら、うんざりとした顔で振り返る。
「何だよ、冷たいなー。俺と烏丸……隊長の仲じゃないですか」
杉の木の枝から、一人の若い男が烏丸を見下ろしていた。
年の頃は、二十前後に見える。
色素の薄い瞳と癖のある髪が、赤茶色に光っていた。
ひらりとその身を一回転させながら、男は烏丸の前に飛び降りた。
「また、そんな恰好をして。御門で止められますよー」
赤狐は烏丸の出立ちを、やれやれといった面持ちで見やった。
「こっちの方が隊袴より、気楽なんだよ」
烏丸は、着ている白いシャツの襟元を、無造作に指で引っ張った。
「俺もそう思うけど。また逃げ出した
やや釣り目がちな瞳を細めて、にやりと嗤う赤狐を横目で睨んだ後、烏丸はしょうがねぇなと呟いて、目を閉じた。
ぱちんと指を鳴らす。
からん。
それまでパンツのポケットに入っていた木札が、音を立てて落ちた。
赤狐が身をかがめて、木札を大事そうに拾い上げる。
ふと視線を上げると、目の前には黒い隊袴の烏丸が立っていた。
肩には黒よりさらに深く、青みがかった濡羽色の
「おおっ。流石、隊長たるもの、袴姿には威厳がありまする。小さいけど」
茶化す赤狐を再度睨み、木札を乱暴に受け取ると、烏丸は無言で歩き出した。
慌てて、赤狐がその後を追う。
「お前、仕事は」
烏丸は前を見たまま、隣を歩く赤狐に短く尋ねる。
「いやー、今回の依頼人、なかなか話が通らないっていうか。あっちでいう会話のきゃっちぼーる? っていうの? それが思うように出来なくて。俺もどうしたものかと頭を抱えております」
赤狐は頭の後ろで手を組み、はあーとこれ見よがしに大きく溜息をついてみせた。
「そうか。お前も、初めてだったか」
烏丸は真っ直ぐ前に向けていた視線を外して、隣の赤狐に目を向ける。
「いやいや、大丈夫、大丈夫。今回は烏揚羽の初顔合わせでしょ。あいつに付いてやってて」
赤狐は胸の前で大きく手を振る。
「……まあ。お前なら。心配はしていないが」
烏丸はそう言って赤狐を一瞥すると、また視線を前に戻した。
赤狐の袴から、一瞬大きな尾が出てふさりと揺れたが、またすぐ消えた。
杉の並木道を進む二人の先、それまで霧と大木しかなかった世界には異質に思える、巨大な門構えが見えてきた。
八本の紅色の太い柱の上に、苔むした茅葺の大屋根を構えたその門には、『
「じゃあ、俺はここで」
赤狐はそう言うと、くるりと身を翻した。
「一緒に行かないのか」
烏丸がすこし意外そうに振り返る。
「だって、そこにいる犬さん達、俺苦手なんだよ」
そう言って、赤狐は恨めしそうに、門の左右に並んだ二対の石像に目を向ける。
「狛犬、な」
烏丸は呆れたように言い直す。
「あっちへ戻る前に、たまたま烏丸の姿を見つけたから、声掛けただけだよ。もうこっちでの用は済んでいるし、此岸へ戻りまーす」
赤狐はそう言うと地を蹴って、ふわりと飛び上がった。
その姿を見上げて、烏丸がゆっくりと口を開いた。
「……
赤狐が目を見開く。
「面倒見の良いところは、お前の数少ない美点の一つだな」
赤狐は小さく舌打ちすると、そのままそっくりお返ししますよ、と呟いて、しゅるりと姿を消した。
烏丸は口許を緩めたまま、狐が消えた宙を眺めていたが、しばらくして、紅色の門をくぐり抜けていった。
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