第3話 祝福③
「何も食べずに飲んだら、悪酔いするよ」
カラスマは、グラス以外何も乗っていないカウンターを見て、少し心配そうに私を見ていた。
大丈夫。
このサングリアは、果物が入っているから。
……しまった。
警戒心を抱かせない、柔らかな物腰で、するりとこちらの懐に入ってくるものだから。
つい、つられてしまった。
「それじゃ足りないだろう」
彼は小さく笑った。
何となく、猫のような男だと思った。
白の長袖のシャツを肘までめくり、下は細身の黒のパンツとスニーカーというシンプルな出立ちは、夜のバーによく溶け込んでいた。
あの、人違いでは?
今更ながら、周りを見渡す。
金曜の夜だ。
カウンターには、他にもちらほらと、一人で飲んでいる客の姿があった。
「何か食べようか。ここはパスタが美味しい」
私の質問など聞こえていないかのように、カラスマはぱらぱらとメニューをめくっていく。
彼の少し長めの前髪が、テラスからの夜風で静かに揺れていた。
……何か困ったことになれば、店員に言って事なきを得ればいいか。
きちんとしたホテルのバーだという安心感と、酔いが回って出てきた、若干の人恋しさも手伝った。
外見も悪くない。
隣で害なく飲まれる分には、好きにさせておけば良い。
仄かな酔いに気持ちが解けて、ゆるい気分になる。
パスタは無理、と私が首を横に振る。
想像しただけでおなかがいっぱいになる気がした。
「カプレーゼなら食べられる? 僕はモヒートにしよう」
トマトは好きだと伝えると、カラスマは頷いて店員を呼んだ。
モヒートはすぐに運ばれてきた。
カラスマは、とても美味しそうに一口飲んだ。
透明なグラスのなかで、ミントとライムがころころと踊る。
あなたは、誰ですか?
ホットで頼んだサングリアは、少しずつぬるくなっていた。
彼はもう一口モヒートを飲んで、それからゆっくりと口を開いた。
「頼まれて、ここに来たんだ」
誰に? と言いかけたところで、カプレーゼが運ばれてくる。
「美味しそうだ」
トマトの鮮やかな赤と、モッツァレラチーズの濃い白。
その上にスイートバジルの柔らかな緑がふわりと乗っている。
イタリアの国旗を彷彿とさせる三色は綺麗に並んで、たっぷりのオリーブオイルで艶々と輝いていた。
これなら、食べられそうかも。
一つ一つが分かりやすいから、それぞれの食材が私の中で繋がっていく。
いつからだろう。
複雑な組み合わせのもとに生まれるであろう料理を見ると、それだけで頭がショートしそうになる。
食材、調味料、工程、味付け、盛り付け、片づけ……。
料理には、恐ろしいほどの選択肢が詰まっている。
その全てを自分が選ばねばならないのかと思うと、あまりの決定の多さに気が遠くなり、眩暈すら覚える。
最近は特に、仕事以外のことで何か選んだり、決めたりすることが苦痛になっていた。
これ以上、複雑になったら困る。
自分の中に入れるのは、単純なものでいい。
単純なものが、いい。
そんなことを思いながら、運ばれてきたカプレーゼを黙って見ていた。
カラスマはフォークでそっと、その美しい配列を崩さぬように取り分けてくれた。
グラスに半分ほど残ったサングリアを口に含む。
ぬるくなった分だけ、それはすこし苦くなったような気がした。
こうして誰かと、外で食べたり、飲んだりしたのはいつぶりだろう。
最近は仕事を理由にして、友人達ともすっかり疎遠になっていた。
久しく恋人もいなかったから、異性と二人きりという状況も久しぶりだ。
カラスマは、自分の皿にもカプレーゼを取り分けた。
大きく口をあけたかと思うと、ぱくんと一口で、綺麗に平らげてしまう。
もぐもぐと美味しそうに頬張る姿は、あまりに無防備だった。
その無邪気さがまた、こちらが少なからず彼に抱いている警戒心をとかしてしまう。
今日は一体、自分に何が起きているのだろうか。
長い一日を思い返し、思わずため息が出る。
「やっぱり、箸が進まないかな」
カラスマが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
まるで、親だ。
初対面の男に、こんな風に心配されているのが、なんだかとても可笑しく感じる。
思わず笑みがこぼれた。
ゆるゆると首を振って、そのままカプレーゼを口に運ぶ。
美味しくて、でも、一口でもう、お腹がいっぱいになる気がした。
ちょっと、失礼。
お手洗いへ向かおうと、立ち上がった途端、目の前がくらりと揺らぐ。
思わずテーブルに手をついた。
「おっと」
肩が、大きな手で掴まれる。
暖かくて、何でも許してくれそうな体温。
そんなことをどこか、醒めた頭で思った。
「痩せたね」
すこし怒ったようにカラスマはそう言うと、私をゆっくり椅子に座らせた。
店員に水を頼むと、ここで待っていてと言って席を立つ。
しばらくして戻ってきたカラスマは、車を手配したと言って、私の手を引いて立ち上がらせる。
「さあ、帰ろう」
花束の匂い。
私の手を引いて前を歩くカラスマからはまた、あの柔らかな香りがしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます