第4話 祝福④
「果物は食べきれそうだね」
剥かれた梨を齧る私を見て、カラスマは言った。
黙ってうなずく。
「サングリアの果物、カプレーゼのトマト、は野菜か」
うーん、どれが良いかな、と一人、ぶつぶつと話しながら、カラスマも梨を頬張った。
窓から差し込む朝の光で、カラスマの、細身だけれども大きな体の輪郭が、きらきらと縁どられていた。
「今日は休みなんだろう? 水も飲んで、もう少し休んだ方がいい」
言われるがまま、素直にベッドの中に戻る。
なんだか、子どもの頃に戻った気分だった。
病気の時の、お母さんが自分を小さい子扱いしてくるような、あの感じ。
心から大事にされていることがいつもより伝わってくるような、あの。
「僕は少し出るよ。だけどまた来る。それまできちんと眠っていること」
カラスマはそう言うと、そっと部屋を出て行った。
ガチャリと、玄関のドアの閉まる音がする。
昨日、彼はこの小さな部屋のどこで休んだのだろうか。
ワンルーム。
ベッドとラグの上にテーブル、そして低い本棚を置いたら、それでいっぱいの小さな私の部屋。
目が覚めた時、ベッドには私ひとりきりだった。
カラスマはキッチンからひょいと顔を出して、言った。
「何が食べたい? 君の好きなものを何でも作るよ」
そんな彼に我ながら、酷いことを言ってしまったと思う。
そう思いはしたが今になってもなお、何が食べたいのか、まるで思いつかなかった。
布団にちいさく包まった、私の体の奥へ奥へと落ちていく梨。
果物は、食が細くなってからでもなんとか口に入れることができるものの一つだった。
何も手を加えられていない、見た目と中身がひたすらイコールな安心感。
何も飾らず、足されることもなければ引かれることもない、ひたすらそのものでしかない安心感。
カラスマは、今の私はシンプルに生きていきたいのだと言った。
何もいらない。
私にまとわりついて、縛り付けて、枷となるすべてのもの。
嫉妬、怒り、悲しみ、劣等感、後悔。
何もいらない。
ただ、息を吸って、吐いて。
疲れたら、目を閉じて眠りに落ちる。
体に力が漲るまで、ひたすら眠り続ける。
傷ついた動物が、巣穴にこもってひとり静かに休むように。
心から笑ったのはいつだったのか。
よく思いだせなかった。
今年は酷暑だった。
そもそも暑さが苦手だったこともあって、食欲はどんどん落ちていった。
皮肉なことに軽くなったはずの体は、鉛玉のようにどんどん重くなっていく。
朝、体に鞭打つような思いでベッドを抜け出すと、何とか身支度を整えて、職場まで向かった。
職場に着くと、今度は妙に覚醒する感覚があった。
感情はどこかに仕舞い込まれて。
ひたすら遅れを取り戻そうと、周りに評価されようとすることだけに、頭からつま先までいっぱいになる。
口の中が苦い。
もう、何も考えたくなかった。
逃れるように掛け布団を、頭まで引き上げる。
胎児のように脚をたたんで、体を小さくまるめる。
きちんと眠るように。
カラスマから言われていたことを思い出し、ぎゅっと目を瞑る。
梨をくるくると剥いていた、彼の細くて長い指が瞼に浮かんでくる。
不思議な青年だった。
変質者だったら……という思いが掠めるも今更、と我ながら失笑する。
カラスマには、そういうものを問題とさせないというか、凌駕してしまうような掴みどころのなさがあった。
酔っていたとはいえ、見知らぬ異性を家にまで上げてしまったが、なぜか後悔も、罪悪感もない。
彼は私を、前から知っているようだった。
そして私も彼を、前から知っている?
そんなことを考えているうちに、静かに打ち寄せる眠りの波に、いつの間にか引き摺り込まれていった。
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