空の青さが気に入らなくて
白江桔梗
空の青さが気に入らなくて
「……はあ、今日も青いな」
雲ひとつない冬空は、間違えてバケツ塗りをしてしまったデジタルキャンパスによく似ている。見上げた空とは違い、それにはグラデーションはないが、私を不快にさせるという意味ではどちらも同じだ。
まあ、どれだけ辟易としても、現実には『一つ戻る』機能なんてないから、私はため息をつくしかないのだが。
「よ、少年っ! 今日もひん曲がった眉毛とシワの寄った眉間がチャーミングだね」
原っぱに寝転がった私を覗き込むようにして、彼女がニシシとはにかんでみせる。首にかかった雲のように白いタオルは風でゆらゆらと揺れている。
「少年って……もうそんな歳じゃねえだろ」
やけに上機嫌な彼女の顔が憎たらしくて――あるいは私の中にある猫の魂のようなものが突如目覚めたからか、そのタオルの端を彼女の顔目がけてはたく。タオルが見事命中した彼女は、ヒキガエルのような声をあげて後ずさる。
「相変わらず容赦ないね、少年は。それで、作業は順調?」
「……アンタが来るまではな」
「さっきまで空を見上げて、ぼーっとしてたのに?」
「現在進行形系でアンタに時間を奪われてるから作業は絶賛大不調だよ」
「ひっどーい!!」
ぶーぶー言う彼女は子どものように騒ぎ立てる。こんな人間に『少年』呼ばわりされていたのかと思うと、再びため息が出る。
「そういえば、イーゼルとかキャンパスとかは使ったりしないの? どちらかと言うとこういうことする人って、そっちのイメージだけど」
私が手に持っていたA4サイズのデジタルキャンパスを見ながら、彼女はそう言った。
「アナログ画材だと揃える物が多いのと、ほとんど消耗品だから金がかかんだよ。その分、コレだと最初に買い揃えちまえば、故障するまで使えるだろ。それに――」
一瞬沈黙の後、私は言うつもりがなかった言葉を続ける。
「――それに、データにさえ残せば、絵画みたいにボロボロにならないしな」
「ふーん、そういうものなんだ」
一瞬、この胸にふつふつと湧いている感情を言葉にしようとしたが、目の前の彼女にそれをぶつけたとして、何の意味があるのだろうか。そう思ったら、自然と私は黙ってしまった。
何となく気まずくて、視線を逸らすと、河川敷の奥の方から息を切らしながら駆け寄って来る人影が見えた。
「先生ー! こんなとこにいたんですか!」
それは、私の唯一とも言える教え子であった。弟子をとったつもりはないが、私を慕って着いてくる人間にいつの間にか愛着のようなものが湧いてしまい、気づけば拒むことなく、受け入れてしまったのだ。
「もう、お昼に指導してくれるって約束だったじゃないですか! 毎週これが楽しみで授業とかバイトを頑張ってるんですよっ」
「へいへい、それは悪かったよ」
「なっ……! 本当に反省してるんですか?!」
「じゃあ、先にいつもの喫茶店で待っててくれ。家寄って画材とか取ってくるから」
それを聞いた途端、彼女の顔はパァーっと明るくなる。
「ふふっ、約束ですよ。――ところで、そちらのイラストは順調ですか? 先生がデジタルイラストも嗜んでると聞いた時は驚きましたけど、そちらの女性、素敵な方ですね。モデルの方でもいらっしゃるんですか?」
「……早くしないと時間が無くなるぞ。どうせ夕方からまたバイトだろ?」
「そ、そうでした……! じゃあ、先に行ってますね、絶対来てくださいよー!」
慌ただしく教え子は去っていくのを見届けると、私はタブレットを起動し、描いてきた絵を見返す。当然、先ほどまで隣にいた彼女は綺麗さっぱり消えている。否、初めからそこにいなかったのだから『消えている』という表現は正しくないのかもしれない。
線香に火を灯したあの日から――貴女に花を捧げ、手を合わせたその日から、私の時は止まっている。すっかり貴女の歳を飛び越したはずなのに、私の中にある影法師は、ずっと同じ名で私を呼ぶ。いつまでも貴女の幻影に縋り生きる私は、誰もが忘れぬようにと、その軌跡を電子データに写し取り続けているのだ。
貴女が好きだったあの青い空も、この草だらけの道も、貴女が別れを告げたこの世界は、貴女がいなくても、時計の針のように進んでいく。ただ一人、僕だけを残して。
「……そうでもしないと、息ができないんだよ」
深く、透き通るようなあの『青さ』に――そして、己の唾棄すべきこの『青さ』を恨みながら、私は静かにペンをとった。
空の青さが気に入らなくて 白江桔梗 @Shiroe_kikyo
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